国民投票で分断されたイギリス社会を示す『秋』を読む。この地獄は日本も辿る道なのか

2021.5.9

国民投票によって分断されたイギリス社会

現代のイギリスに住む、母親が亡くなったばかりのティーンエイジャー、ジョージの大晦日の様子から始まるエピソードと、15世紀の実在のイタリア画家フランチェスコ・デル・コッサのエピソードという、一見なんの関連もなく描写のスタイルもまったく異なるふたつの物語が、アクロバティックなかたちで結びつく。しかも、造本上にもある驚きの仕掛けが施されていて——。

『両方になる』アリ・スミス、木原善彦 訳/新潮社
『両方になる』アリ・スミス 著/木原善彦 訳/新潮社

アリ・スミスといえば、2018年に訳出された『両方になる』(新潮社)で、日本でもファンを増やしたイギリスの女性作家です。今回紹介する『秋』は、2016年、イギリスが国民投票によってEU離脱(ブレグジット)を決めたことを受けて書かれた「ポスト・ブレグジット小説」として話題になった長篇小説。国民投票によってイギリス社会がどう変化したかについても描かれているので、わたしたち日本人にとって示唆に富んでいる作品と、わたしは思っています。

『秋』アリ・スミス、木原善彦 訳/新潮社
『秋』アリ・スミス 著/木原善彦 訳/新潮社

主人公は、大学で美術史を教える講師をしている32歳のエリサベス。彼女には69歳も年が離れた友ダニエルがいます。出会いは8歳のとき。1993年、母親とふたり引っ越したばかりの家の隣に住んでいたのがダニエルだったんです。直接いろいろ話を聞いた上で、隣人についての作文を書くという宿題が出されたのがきっかけで、自分に会いに来た小さな女の子を初対面で気に入った老人は〈やっと会えた〉〈生涯の友〉とまで言って受け入れ、以降、ふたりは友情を育んでいくことになります。

今や療養施設で眠りつづけている101歳のダニエル。彼を見舞い、枕元で本を朗読するエリサベス。この現在進行形の物語の背後にあるのは、〈人々は互いに向かって何かを言っているのだが、それが決して対話にはならない〉〈(エリサベスの母親が住む)村の人の半分は、残り半分の人に話し掛けなくなった〉〈イギリスのあちこちで、国がばらばらになる。イギリスのあちこちで、国が漂流を始める。イギリスのあちこちで国が分裂し、こっちにはフェンスが立てられ、あっちには壁が作られて、こっちには線が引かれ、あっちでは線を越える人が出てくる〉というブレグジットをめぐる国民投票によって分断されたイギリス社会です。

〈週末に、大声で“統治せよ、英国よ”を歌いながらエリサベスのアパートの外を歩くチンピラの一団がいた。英国は大海原を統治する。最初の標的はポーランド人。次はイスラム教徒。その次は日雇い労働者、そしてゲイ。おまえら、ただじゃ済まさないぞ、と同じ土曜日の朝、ラジオ4の討論会で右翼の代表が女性国会議員に向かって大声で言っていた〉

そんな近年の日本によく似た光景が繰り広げられる現在進行形の物語の合間に挿入されるのが、ダニエルが深い眠りの中で見ている夢であり、ダニエルとエリサベスが長い年月をかけて培ってきた思いやりと敬意に満ちた関係です。そこから浮かび上がってくるのが、1960年代に活躍した実在のポップアーティスト、ポーリーン・ボディ。

コラージュ、絵画、ステンドグラス、舞台装置などを作っていたばかりか、女優として舞台やテレビの仕事もしていたマルチな才能の持ち主。28歳という若さで亡くなったこの女性の、ジェンダーや政治をめぐる先鋭的な作品に、エリサベスは幼いころダニエルの家で接しており、学生時代に再発見した折には、指導教員の反対を押し切って学位論文のテーマにも取り上げたほどなのです。

ダニエルとポーリーン・ボディはどんな関係だったのか。エリサベスと共に、読者は想像を巡らせずにはいられなくなります。エリサベスとは違って、ダニエルが見ている夢の内容まで知っている読者は、よりいっそう、ミステリアスな人生を送ってきたダニエルの若き日に、思いを馳せずにはいられなくなるんです。

分断に立ち向かうための心の在り方

イギリスがEUから離脱するかどうかを決める国民投票が行われた2016年を現在進行形の物語の舞台にしているこの小説は、そのことによってかの国が決定的に分断された世相を描いて、これからその大事と向き合わなくてはならないわたしたち日本人にとっては、なかなかに衝撃的です。戦後守りつづけてきた平和憲法の改正(わたしは「改悪」と思っています)の是非を問う国民投票によって、ただでさえ分断化が進んでいる日本の社会はどうなってしまうのか。不安は募るばかりです。

イギリスにおけるような社会変化は、日本においても決定的でありましょう。でも、立ち止まって考えてみると、これまでだって社会は変化しつづけ、わたしたちはその変化を経験しつづけてきたわけです。そのさなかにあって、混乱する大勢の“わたし”を支えてくれたのはなんだったのか。誰かに向ける愛情や、記憶や、思考停止しない姿勢のはずです。ダニエルとエリサベスは、小説世界の中で、急流の中にあって流されることなく立ちつづけるためのその姿勢を見せてくれています。『秋』という作品が描いているのは、国民投票によって生じてしまう分断に対する不安だけではありません。そこに立ち向かうための心の在り方なのです。夢や理想の効用なのです。だから、わたしは国民投票法改正案が今国会で成立したって、平和憲法を守ることを諦めません。

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