「全集中の呼吸」で警戒せよ。<悪>はいつも、親しみやすい貌で近づいてくる『短くて恐ろしいフィルの時代』

2020.11.7
豊崎由美サムネ

文=豊崎由美 編集=アライユキコ


11月2日衆院予算委員会。立憲民主党の江田憲司の質問に『鬼滅の刃』のセリフを引用した菅首相の答弁が話題を呼んだ。おもしろい、あざといなど一過性の感想で片づけていいのか、権力者がわかりやすい言葉で近づいてくるときこそ警戒しなければと、書評家・豊崎由美が取り上げた一冊は『短くて恐ろしいフィルの時代』。

「江田さんですから、私も『全集中の呼吸』で答弁させていただく」
(菅義偉内閣総理大臣 『朝日新聞デジタル』2020年11月2日)

熱狂的な演説をかますデマゴーグ

〈国が小さい、というのはよくある話だが、《内ホーナー国》の小ささときたら、国民が一度に一人しか入れなくて、残りの六人は《内ホーナー国》を取り囲んでいる《外ホーナー国》の領土内に小さくなって立ち、自分の国に住む順番を待っていなければならないほどだった。〉
アメリカの作家ジョージ・ソーンダーズの『短くて恐ろしいフィルの時代』は、こんな一節から始まります。

外ホーナー人たちは〈一時滞在ゾーン〉に身を寄せ合って立っている惨めな風体の内ホーナー人を差別していて、内ホーナー人は内ホーナー人で自分たちの小さな国を取り囲む広い空間で足を伸ばしてくつろいでいる外ホーナー人に対し憎しみを覚えています。

かくして国境のあっち側とこっち側で、敵意のこもった視線や、聞こえよがしの悪態や、ときに面と向かっての罵声が飛び交う状態が、もう何年も続いていた。

『短くて恐ろしいフィルの時代』ジョージ・ソーンダーズ 著/岸本佐知子 訳/KADOKAWA

そんなある日、内ホーナー人たちは、国土がさらに小さくなってしまうという悲劇に見舞われます。で、ちょうどそのとき、国内に住んでいたエルマーの体の4分の3が国外に出てしまい、外ホーナー国の国境警備員レオンと市民軍の面々フリーダ、メルヴィン、ラリーの一行が駆けつけ、険悪な雰囲気に。ラリーはなんとかエルマーの体を内ホーナー国に戻そうとするのですが、どうしてもはみ出してしまいます。そこへやって来たのが、〈誰からも、ややひねこびているという以外にこれといって目立ったところのない平凡な中年男と思われていた〉フィル。「税金を取ればいい」と入れ知恵する彼には、かつて内ホーナー女性のキャロルに失恋をしたという暗い過去があります。

と、ここでストーリー紹介をいったん中断して、ホーナー人たちの外見について説明させてください。彼らは機械の部品と有機体が合体したような体を持っていて、キャロルの〈黒くつややかなフィラメント、振り子のように揺れ動く半透明の皮膜、露出した背骨のゆるやかなカーブ、毛皮におおわれたグローブ状の突起物でしとやかにベアリングを掻くしぐさ〉にぞっこんだったフィルはというと、興奮すると〈脳を巨大なスライド・ラックに固定しているボルトがときどきはずれ、脳がラックを勢いよく滑って、地面にどさっと落ちてしまう〉といった具合で、読み進めていくとわかりますが、そんなときのフィルはとても危険。脳みそを落としたせいか、考えなしに熱狂的な演説をかますデマゴーグと化してしまうからです。

パンケーキを食べるシャイなお爺さん


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