「全集中の呼吸」で警戒せよ。<悪>はいつも、親しみやすい貌で近づいてくる『短くて恐ろしいフィルの時代』

2020.11.7

パンケーキを食べるシャイなお爺さん

閑話休題。さて、国境をはみ出してしまう内ホーナー人たちから税を取り立てればいいというフィルの提案はほかの4人にあっさり受け入れられ、いい気になったフィルはいかに外ホーナー国が偉大か、いかに自分たちが優秀か、いかに内ホーナー人がみじめかとまくし立てます。
〈たしかに、長年《一時滞在ゾーン》に窮屈にくっつきあって立ち、こみいった数学の証明問題を互いにひそひそ出しあって待ち時間をやり過ごしてきたせいで、内ホーナー人たちはみなひ弱で、背も低かった〉一方、〈ありあまるほどの土地をのびのびと闊歩してきたおかげで、よく肥って色つやもよく、おまけに数学の証明問題のスの字も知らなかった〉外ホーナー人たち。フィルをはじめとする5人は、内ホーナー国から容赦なく資産を奪うんです。
〈ごく小さなリンゴの木:一本。干上がりかけた小川:一筋。乾いてひびわれた土:およそ百リットル。〉
食べ物や飲み物に欠くようになった内ホーナー人たちは、外ホーナー国の大統領宛てに窮状を訴える手紙を書きます。はるか昔、学生だったころに1学期だけ内ホーナー国に留学した経験があり、内ホーナー国びいきと評判の大統領だったからです。ところが高齢の大統領は、フィルに言いくるめられるかたちで、これまでなかった〈一時滞在ゾーン取税法〉が存在したかのように錯覚させられ、あまつさえ〈国境安全維持特別調整官〉にフィルを任命したということにされてしまうんです。
 
大きな権力を手に入れたフィルは、ものすごく体が大きくて、筋骨たくましく強面のハンサム青年、ヴァンスとジミーをボディガードに雇い、〈胸に《フィルの親友隊》と書いた、おそろいの赤いぴちぴちのTシャツ〉を着せたふたりを率いて、力づくで内ホーナー人たちから着ている服まで税として奪い取ってしまいます。そして、抵抗する内ホーナー人を〈侵略者〉と呼び、〈解体する〉ことを宣言。親友隊のふたりに命じて、かつて片思いをしていた内ホーナー女性キャロルの夫であるキャルを各種ねじ回しとペンチ2本を使って〈物言わぬベルトのバックルとツナ缶、青い点、それにいくつかの連結パーツの寄せ集めに〉してしまうんです。

と、ここまでのあらすじを読んだだけで、これがナチズムやスターリニズム、南アフリカのアパルトヘイト政策、ジェノサイドの寓話だということがわかると思います。でも、この小説のすごさは、“悪”はわかりやすい貌で登場しないということを描いている点にあるんです。
フィルは取り柄のない平凡な中年男でした。フィルが雇ったヴァンスとジミーはもともとは気の優しい力持ち。このふたりのやりとりはまるでボケとボケの漫才みたいで可笑しくて、可愛らしいコンビとして、読者の前に現れます。
“悪”はいかにも憎々しい貌や剣呑な雰囲気をまとってわたしたちに忍び寄ってくるのではなく、パンケーキを食べたり人気マンガのセリフを口にする無害そうな老人の皮を被って握手を求めてくるのかもしれない。フィルがそうであるようにマスコミをコントロールして、パンケーキを食べるシャイなお爺さんの貌をあちこちの媒体や電波に乗せて安心させてくるのかもしれない。教育を受けたくても受けられなかった人たちの一部が抱く、学問への憧れが反転した反発を利用して、自分の政策に反対する知識人を迫害しようとしてくるかもしれない。わたしたちはそんな権力者が何をしようとしているのか注視しつづけなくてはならない。『短くて恐ろしいフィルの時代』は、読者に警戒心を発動させてくれるんです。

社会の分断化を統治に利用しようとする

さて、大統領を宮殿ごと排除するというクーデターを成功させ、新大統領の座に就いたフィルはいよいよ内ホーナー国を侵略にかかります。そして、以前からフィルに懐疑の目を向けていた市民軍の一員フリーダ(あらすじの最初のほうに登場してます)が反対の声を上げるや、彼女を解体。
〈みんなもいい教訓になっただろう! 不忠誠、指導者に何度も何度も異議を申し立てて権威の失墜を狙う卑劣さ——それら憎むべき内ホーナー人どもに特有の憎むべき傾向は、われわれ外ホーナー人の内にも芽生えうるのだ。お前たちだって、いつ何どき体が縮んで、数学の証明問題を解きださないとも限らない。われわれはよくよく警戒しなければならない。自戒しなければならない。ジミー、ヴァンス。フリーダがわれわれの自戒の助けとなるよう、フリーダの部品を魅力的かつインパクトあふれる手法で展示するのだ。〉
そう、“悪”はインテリ憎悪の貌を露わにすることがままあります。そしてフィルのように、自分同様、己が持ち合わせていない知識を有する者を憎々しく思っているタイプの民衆(日本でいえばネトウヨですね)の感情を利用して、自分に反対する者(敵)VS 賛成する者(味方)という単純な(つまり、わかりやすい)構図を作り、社会の分断化を統治に利用しようとするんです。

でも、歴史が証明するとおり、“悪”の天下は永続しません。この寓話もまた、外ホーナー国を幅15センチほどの帯状の輪となって取り囲んでいる〈大ケラー国〉の登場によって、フィルの暴走に歯止めがかかるという展開を迎えます。
総勢9名からなる国民が幅15センチの国土の上を〈大統領を先頭に一列に並び、日がな一日にこやかに、なごやかに、しずしずと歩を進めつつ〉、〈国民総楽しさレベル〉のなお一層の向上だけに努めているという大ケラー国が、どのようにフィルに鉄槌を下すのかは読んでいただくとして、しかし、作者のジョージ・ソーンダーズはこの寓話を「めでたし、めでたし」では終えていません。“悪”の萌芽を摘むことは誰にもできないことを警告して震撼必至のシーンを最後に置いているんです。

『短くて恐ろしいフィルの時代』ジョージ・ソーンダーズ 著 岸本佐知子 訳 /KADOKAWA
『短くて恐ろしいフィルの時代』ジョージ・ソーンダーズ 著 岸本佐知子 訳/KADOKAWA

この未来永劫読み継がれていくべき優れた寓話は2011年に岸本佐知子訳によって角川書店から出ているのですが、今や品切れ状態。由々しき事態と、トヨザキは思います。安倍晋三(ひいては菅義偉)的なもの、ドナルド・トランプ的なもの、習近平的なものが力を持ち、支持を得ている危うい時代である今こそ、笑いながら読んでいるうちに背筋が凍る傑作『短くて恐ろしいフィルの時代』が大勢の人に読まれてほしい。どこかで復刊して。してして、して!

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