『はな恋』と接待問題から考える、「大人になる」という問題
コメカ 社会を的確に表現しているというのはまさにそう思うね。坂元は現代社会論的な語りをするつもりはなかったと思うんだけど、若いふたりの恋愛の始まりと終わりを丁寧に描いたら、結果的に社会像がくっきりと描写されることになってしまった、というか。そして、これはライターの西森路代さんも論じておられるけども、その社会像の中でのモラトリアムという概念の捉え方が、やっぱり論点になってくるわけだよね。ここは正直僕はまだあんまり考え方がまとまってないんだけど、戦後日本的モラトリアムみたいなものをどう捉えるかといった話にもつながっていくと思うんですよ。
サブカルチャー論においてもいわゆる「成長/成熟の不可能性」みたいな問題が論点化されることがこれまでよくあったけど、果たして今現在それをではどう考えるか?という。パンスが言う「人生は行ったり来たり」というのが正直まあ僕もそのとおりだと思うし、実際自分の実人生をそういうふうに生きているしね。しかし、たとえば子供/大人というようなある程度固定的な構図・フレーミングについて、たぶん僕はまだ何か考えたいんだと思うんですよね。
パンス 僕もそのフレーミング自体には興味がある。少なくとも日本においては戦後ずっとテーマにされがちだし。とはいえ、それがひとつの人生訓になってしまってはやだなと思うんだよね。こうしなさいという制度をどう受け入れるかという問題ね。まあ「人生は行ったり来たり」という定義もあんまり言い過ぎると人生訓になりそうだが(笑)、前提はできるだけユルく取っておきたいのよ。
ここでちょうど最近起こった出来事を挙げると、菅首相の息子が話題ですね。無職でバンドマンだったのが秘書官に抜擢され、そのあと東北新社へ、という半生はまさに、モラトリアムから社会へ、という流れを体現している。社会というかいきなりその中枢で動き始める立場になっちゃった。そういえば安倍晋三も父・安倍晋太郎(当時外務大臣)の秘書官をやっていたけど、特にこんな暗躍は見せなかったんだろうなあとか考えたりしたよ。
コメカ 菅が言った、自分と息子とは「別人格です」というのは実際そのとおりではある。言うまでもなく、親と子どもは別の人間。しかし息子・菅正剛は2006年・25歳のとき、総務大臣となった父親に大臣秘書官にしてもらい、2008年に父の後援者が創業した東北新社に入社、そして総務省の高級官僚を違法接待した……という流れだからね。この状況を「別人格です」という答弁で乗り切ろうとすること自体が論点ズラし。
「今もう40ぐらいですよ。私は普段ほとんど会ってないですよ。私の長男と結びつけるちゅうのは、いくらなんでもおかしいんじゃないでしょうか」と菅は国会答弁してるけど、無職でフラフラしていたという正剛は菅の秘書官として抱え込まれて以降、40歳になっても親が作った文脈の外側に出られていないんじゃないかと、この事件を見ていると感じてしまう。こういう光景を見ると、やっぱり何がしか通過儀礼や「大人になる」という問題について、考えなければいけないな……と改めて思っちゃうんだよね。
パンス え! そういう結論か……。まあこの件が問題なのは違法接待してたからであって、いくつになっても親の庇護にあるケースはたくさんあるわね。そんな中でどんな勝ち上がり方をしてたのかしら、という点が僕は気になってしまうけど。書きながらふと思ったけど、特にここ十数年の日本において社会構造そのものにメスを入れるような表現は比較的低調だったけど、家族や個人の成長について追求するものはふんだんにある。なので評価軸自体もそっちに向かうのはよくわかるし、戦後日本におけるテーマとして重要な位置を占めているのもさもありなんという気がしてきたな。『花束みたいな恋をした』自体は、作家本人の意志をよそに、社会と個人の関係性のバランスがとてもよく描かれた作品だったといえるでしょう。
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