説明責任をスルーする菅政権が生み出す推測ゲーム。「動員」の時代から次のフェーズへ

2020.11.10

2010年代は「動員」の時代だった。そして、次のフェーズへ

パンス 最近Netflixで『呪怨:呪いの家』を観たんだけど、90年代に起こった凶悪事件などの「現実のニュース」が「つながっているかもしれない」という陰謀論的な想像力でできているのがおもしろかった。そしてそれらの原因をひとつの「家」に求めるという。
戦後日本の、従来の地域共同体から切り離されて存在する住宅というトポス――場所に呪いのもとがあるという見立ては、下手な陰謀論より説得力があるかもしれない(笑)。神奈川金属バット両親殺害事件(1980年)が起こった「家」を撮った藤原新也のアプローチを思い出したりもした。

『呪怨:呪いの家』予告編 - Netflix

コメカ 文芸批評というのは、作品や作家に対して任意のストーリーテリングをするものでもあるからね。ただ、「物語」に対する検討・批判という機能も批評にはあるわけで、ネットやSNSにはびこる諸々の「物語」への抵抗手段にもなり得る。
ただ厄介なのはさあ、ネットやSNSが全面化したことで、「物語」をパッケージの中に閉じ込めておけなくなった現実があるってことで。『呪怨:呪いの家』をひとつの創作物、現実とは意識的に切断された「虚構」として楽しむならいいけど、そういう突拍子もない「虚構」の構造で現実を説明しようとするようなやり口がいわゆる陰謀論であるわけだよね(笑)。
これがネットやSNSを通して個々の人間に猛スピードで伝播していくと、文芸批評的な「物語」批判では作業が追いつかなくなってしまう。「強力な物語」を語ることと、精緻に事実検証していくことは全然別物で、Qアノンの伸長が日本でもよく取り沙汰されるようになったけど、ああいう『X-ファイル』的なトンデモストーリーテリングは単純に刺激的でおもしろいから、どんどん伝播していくんだよ(笑)。困ったもんですよ。

パンス かつては凶悪犯罪なんかを評して「若者は現実と虚構の区別がつかない」なんてよく言われたもんですが、今や誰もが区別ついてないかもと思えるような状態。それはまさに、虚構がパッケージから抜け出てしまったからだね。ひたすら断片的な「語り」だけがあって、タイムラインに流れてくるそれらの集積で思考を構成するようになってきている。
そんなわけでSNSをどう捉えるか。かつてはインターネットって「サイバースペース」みたいにひとつの場のように言われていたけど、今は現実生活の上に乗っかってる世界みたいな感じ。そこにアクセスしていない人にとっては関係ないけど、している人にとっては自分も含めて生活の中に強く刺さっているという。そんな話がこれからも中心になっていくかと思われます。

コメカ 2010年代は思想の如何を問わずネットを通した「動員」の時代だったっていうのはたぶんみんな感じていると思うんだけど、その次のフェーズにどう向かい合うか、っていうのを各自考えているような状況だよね、今。
僕らもこの連載を通して、時事状況を見ながらそのことを考えていければなと。ふたりでこの話をしている最中に大阪市の存続が可決されたけど、「物語」で支持者に動員をかけるポピュリストの扇動が社会の各所でつづけばつづくほど、いわゆる分断や断絶は際限なく広がっていく。
今後は社会の中で広く合意点を協議し見つけていくためのリハビリテーションがたぶん必要で、じゃあそれは具体的にいったいどんなリハビリテーションなのか?っていうのを、その時々に起こる文化や社会の諸々を通して考えていきたいと思ってます。ではでは、また次回!

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