国家権力の行使から「リベラル優生学」へ
1988年から15年をかけて完了したヒトゲノム計画は、さまざまな疾患を引き起こす原因遺伝子が突き止められるなど数多くの知見を生む一方で、同時に多くの弊害をもたらしたという。埼玉医科大学教授の石原理は、《その最たるものは「遺伝子至上主義」あるいは「遺伝子原理主義」ともいえる極端な考えだ。「遺伝子原理主義者」たちは、遺伝子を解読すれば、その人物の性格や知性、発病リスクや寿命、はては運命までが予測できるかのような幻想を振りまいた》と指摘する(『生殖医療の衝撃』講談社現代新書)。
喫煙や肥満、自殺までもが遺伝子のせいだとする発見が続々とメディアで報じられ、これによってさまざまな人間の悩みが解決されるかのような論調が目立ってきたのもこのころだ。こうした遺伝子に対する人々の幻想や期待は、科学者たちが振りまいた一面もあったことは否めない。たとえば、受精卵の段階で遺伝子に改変を加えることで、望みどおりの外見や能力を持った子供を誕生させるという「デザイナーベビー」はその顕著な例だ。アメリカのディーン・ヘイマーという遺伝学者は今から20年ほど前、雑誌に「行動形質、IQ、利他主義、精神疾患、そして不老長寿を志向するデザイナーベビーをつくる時代が来るかもしれない」と書き記している(『王家の遺伝子』石浦章一)。
この予測は、生殖医療技術の発達により実現しつつある。2009年には、男女産み分けを請け負ってきたアメリカのクリニックで、目の色や髪の毛の色を選べるサービスが新たに始まったと報じられた。翌2010年にはやはりアメリカで、美男美女がインターネット上でデートするサイトが、会員から一般の希望者に「美男美女の精子・卵子」を提供する新サービスを始めたとテレビで紹介された。いずれも積極的優生学そのものといえる。
ただ、かつての優生学は積極的・消極的にかかわらず、国家権力が強制的に行うものであった。これに対し、新たに登場した優生学は、過去の反省からあくまで個人の自由意志を尊重し、両親は自発的選択にもとづいて子供たちにいかなる遺伝的改良を施すべきかを決めると強調されている点で異なる。これは「リベラル優生学」と呼ばれ、欧米ではヒトゲノム計画の完了と前後してひとつの学派を形成するようになった。もちろん、リベラル優生学に対しても批判はある。障害者団体などは《遺伝子改良の思想そのものに障がい者を排除する価値観が読み取れるし、遺伝子が改良できる時代になれば、障がい児を持つ親はそれだけで肩身が狭くなり、社会から批判を受けることにもなりかねない。公的援助も狭まるに違いない》といった懸念を抱いているという(小坂洋右『人がヒトをデザインする 遺伝子改良は許されるか』ナカニシヤ出版)。冒頭に挙げた乙武洋匡の提起した「人の命に序列をつけていいのか」という問題からも、リベラル優生学が免れ得るとはとうてい思えない。
北海道新聞記者の小坂洋右は、かつてイギリスのオックスフォード大学で生命倫理や遺伝子改良の是非を研究していたころ、指導教官についた教授がリベラル優生学を代表するひとりで、その考えに次第に違和感を覚えるようになったという。小坂の著書『人がヒトをデザインする 遺伝子改良は許されるか』はこうした体験を発端として、人間の遺伝子改良の是非を論じたものだ。そこでは、優生学のもたらした過去の悲劇、ヒトゲノムの解明をめぐる現代社会の動向などを紹介しながら、その背景にある哲学・思想を試金石に「人としての道」を探り出そうとしている。
『人がヒトをデザインする』では、デザイナーベビーやリベラル優生学を先取りする形で、1980年にアメリカでスタートした「ノーベル賞受賞者の精子バンク」についても一章が割かれている。これは優秀な子供が欲しい女性たちに、その名のとおりノーベル賞を受賞した科学者の精子を提供するという触れ込みで開設された。だが、実際にノーベル賞受賞者から精子の提供を受けたのは最初だけ、しかも彼らから精子を提供された女性たちはいずれも身ごもらなかった。その後、ドナーの条件はゆるめられ、ノーベル賞受賞者でもなくてもIQが175クラスの知性を持っている人物でもいいことになる。それでもなかなかドナーが集まらないので、ついには大学院生などにまで対象が広げられ、80年代半ばにはおおむね来る者は拒まなくなる。バンク側が女性たちに提示するドナーのカタログには美辞麗句が躍ったが、そこには事実と異なるデータも少なくなかったという。結局、ノーベル賞受賞者精子バンクは、創設した人物が亡くなり、事業を引き継ぐ者も現れなかったことから1999年にひっそりと閉鎖された。
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