街について書くのは、人々の営みに土足で立ち入ることだった
5年ほど前、私が地元で珍スポットライターを名乗っていたころ、頻繁に登場していただいた食堂があった。そこは店主が熱狂的なミスター・ジャイアンツ、長嶋茂雄のファンだった。店主作成のミスターの巨大看板が目印で、店内はおびただしい巨人グッズにあふれていた。店主のラッキーナンバーはミスターの背番号「3」で、客用のスリッパから出前用の車、カレンダーの仲間由紀恵や招き猫の眉間にまで「3」を刻印。営業時間も10時03分~21時03分とこだわりを貫いており、誰が見ても珍妙な場所だった。
店主は、ユーモラスで穏やかなおじいさんだった。持病があり、満身創痍で奥さんと店を営んでいた。私は常連というわけではなく、おもしろネタに枯渇したら店に出向くという薄情者だったが、それでも店主は毎度、快く取材を受けてくれた。
その日も1年ぶりの訪問だった。なぜかミスターの巨大看板が撤去されているところだった。私はそこで初めて食堂が閉店することを知った。駐車場には寂しそうに看板を見つめる店主がいた。予想しない事態に私がパニクっていると、「いや~、体調が悪くてドクターストップかかっちゃいました。アハハ」と、いつものように優しく笑った。そこへ、私の連れが気を遣って「最後に一緒に記念撮影でも」と入ってきた。そして彼女がスマホを掲げた瞬間だった。「ヤメテクダサイ!」という耳をつんざくような鋭い声が、駐車場に響き渡った。今まで聞いたこともない、悲鳴のような店主の叫び声だった。
私が珍スポットだと騒ぎ立てていたその店は、ひと組の夫婦が、50年以上にわたって守ってきた大切な城だった。そんなかけがえのないものを、私は場当たり的なネタとしてしか見ていなかった。街を書くということは、そこに生きる人々が懸命に積み上げてきた営みに、多かれ少なかれ土足で立ち入ってしまうことだ。自分が無自覚にしてきたことの暴力性を突きつけられた私は、罪悪感の塊が喉の奥から込み上げてきたのだった。
あのときの店主の悲鳴が今でも脳味噌にこびりついている。街を茶化し、食い潰すだけのようなことは、もう、してはいけない。そんな後悔をもとに、書き連ねたのが『どこにでもあるどこかになる前に。~富山見聞逡巡記~』というエッセイだった。書く行為そのものが暴力性をはらみ、否が応でも何かを消費してしまうことに躊躇しながらも書いた。
あきれるくらいに忘れてしまうから
大阪府知事と市長の道頓堀パフォーマンスの後日、「づぼらや」名物のふぐ看板をオブジェとして残す動きがあるという話を聞いた。市長は前向きに検討しているようだったが、看板を残す前に本体を残せなかったのだろうかと思う。私だったらどうだろう。もしも例の食堂の看板が残されることになり、食堂なきあともミスターが微笑んでいたとしたら。食堂の記憶とミスターへの愛が刻印された、街のシンボルだと思えるのか。それとも、魂が抜かれたハリボテだと思うのだろうか。
考えてみれば、「かつて、そこにあった」という記憶の片鱗は、街にはいくつも散りばめられている。2018年、北陸新幹線開通に伴う再開発事業により、富山駅前に新しい商業ビルが建てられた。その一角にある小さな赤い鳥居を見ると、ここがかつて「シネマ食堂街」というションベン臭い横丁で、富山の飲兵衛たちの最後の砦だったことを思い出す。でもそう遠くないうちに、私は思い出さなくなるのだろう。
同じく再開発事業によって、隈研吾設計による図書館とガラス美術館を併設した「TOYAMAキラリ」が、2015年に富山市の街中に建った。ここにはかつて、1932年創業の老舗デパート「富山大和」があった。そのデパートが、1945年8月1日に起きた富山大空襲で焼け残った遺構だったこと。今から75年前に市街地の99.5%が焼失したこと。遺構が取り壊された今、自分も含め、どれぐらいの市民が覚えていられるだろうかと思う。
自分たちの中にあった街の記憶は、想像以上の速さで、目に映る現在の風景に上書きされていく。ここで何があったのか、何が起こったのか、記憶の片鱗があるうちに探し出しておかないと、あきれるくらいに忘れてしまう。あったことを忘れてしまうことや、あったことをなかったことにすることもまた、紛れもない暴力だと思う。新しい生活様式への移行を迫られる今だからこそ、よけいに強く思う。
スマートに書かなくてもいい、断片的な殴り書きでもいい。今の富山を率直に書き留めていきたいと思う。その言葉は、この先いつか、どこかを指し示す道標になるかもしれないから。
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