ハイスペ男子の奇妙な自分語りが、男性性のメカニズムを浮き彫りにする芥川賞受賞『破局』(清田隆之)
『破局』の主人公・陽介は、礼儀正しく、空気を読み、コミュニケーション能力が高い。これは一見すれば「常識的」な人物像にも思える。だが、恋愛相談をライフワークとしフェミニズムにも詳しい「桃山商事」の清田隆之はこれらの描写に、ミソジニー的な価値観を感じ取った。
作品から読み取れる、社会に偏在する女性蔑視的な価値観とマジョリティ男性の特徴、そして陽介の「奇妙さ」を考える。
“ハイスペ男子”の言動に宿る奇妙な手触り
このたび第163回芥川賞を受賞した遠野遥『破局』は、大学4年生の陽介が母校で部活のコーチをしたり、好意を向けてきた後輩女子とセックスしたり、元カノと肉体関係を持って恋人にフラれたりする小説だ(これだけ聞いてもどんな小説かまったくイメージできないと思うが……)。
陽介は慶應(と思しき)大学の法学部に在籍しており、公務員試験を目指して日々勉強に励んでいる。また、高校時代に所属していたラグビー部に今は指導者として関わっていて、部員たちに厳しいトレーニングを課している。自らも筋トレやランニングを日課とし、その肉体は監督から「そんなに鍛えてどうするんだ?」と驚かれるほど引き締まっている。
肉とセックスを好み、恋人は途切れない。勉強や筋トレをサボることなく継続する精神力があり、常に冷静で理知的で、恋愛でも友人関係でも相手に気を遣いながら丁寧に接している。礼儀正しく、空気を読み、相手の話にしっかり耳を傾け、ものまねで恋人を笑わせたりもする。パッと見、コミュニケーション能力の高い“ハイスペ男子”に分類されそうな人物像だ。
しかし、一人称の独白形式で綴られていく彼の語りを追っていると、しばしば奇妙な感覚に襲われる。不穏な気持ちになってくる、という言い方のほうが近いかもしれない。陽介は基本的に常識的な行動しか取らないし、思考回路も極めてロジカルだ。そんなハイスペ男子の語りに宿る不思議な手触りの正体は、いったいなんなのか。
悲しむ理由がないから悲しくない
たとえばこんなシーンがある。陽介は途中、元いた彼女と別れ、大学の後輩である灯(あかり)という女性と付き合い始めるのだが、恋人として北海道へ初めての旅行に行った際、少し冷えてきたからと陽介は灯に温かい飲み物を買おうとする。ところが近くの自販機には冷たい飲み物しか入っておらず、そのことを残念に思って唐突に涙を流し始める。
なにやら、悲しくて仕方がなかった。しかし、彼女に飲み物を買ってやれなかったくらいで、成人した男が泣き出すのはおかしい。私は自動販売機の前でわけもわからず涙を流し続け、やがてひとつの仮説に辿りついた。それはもしかしたら私が、いつからなのかは見当もつかないけれど、ずっと前から悲しかったのではないかという仮説だ。だが、これも正しくないように思えた。私には灯がいた。灯がまだいなかったときは麻衣子がいたし、(中略)みんな私によくしてくれた。その上、私は自分が稼いだわけではない金で私立のいい大学に通い、筋肉の鎧に覆われた健康な肉体を持っていた。悲しむ理由がなかった。悲しむ理由がないということはつまり、悲しくなどないということだ。
『破局』より
わけもわからず流れ出た涙に対し、その理由や背景を探ろうとする。これはいわゆる「感情の言語化」という行為ではないかと思う。自分の状態を把握したり、他者と意思疎通を図ったりするために必要な行為で、多かれ少なかれ誰もが感じたことを言葉にしながら生きているはずだ。
『ソーシャル・マジョリティ研究』(綾屋紗月ほか著、金子書房)という本にこの行為のメカニズムが説明されているのだが、それは「できごとに感応する身体的把握」と「社会的文脈にもとづく言語的理解」のふたつが結びついてようやく成立するものだという。
まず身体になんらかの反応(=動悸がする、お腹がキューッとなる、手が震えるなど)が起き、その意味(=好き、緊張、怒りなど)を事後的に探していく。そのようなプロセスで行われるのが感情の言語化だ。
このシーンで言えば、先行してなんらかの出来事があり、それに対する身体反応として涙が流れている。そして原因や文脈を鑑みた上で、涙の意味を言語化していくという作業が最初は行われていた……はずなのだが、途中から微妙なズレが生じる。
涙の理由を「ずっと前から悲しかったのではないか」と推測するところまではすんなり共感できるのだが、そこからなぜか、自分がいかに恵まれた人生を歩んでいるかに思いを馳せ、しまいには「悲しむ理由がない」と言語的理解(=意味づけ)をストップし、「悲しくないことがはっきりしたので、むしろ涙を流す前よりも晴れやかな気分だった」とポジティブになってしまう。
感情の言語化を試みているようでいて、まったく異なる行為をしているようにも見える。これはいったいなんなのだろうか……。『破局』にはこういった引っかかりがそこかしこに埋め込まれている。
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