日本語の中の「ソーシャル・ディスタンシング」――ヒキコモリから憲法改正まで(粉川哲夫)

2020.5.14

ウイルスのように伝染していった英語の次世代言語とは?

日本の生活文化の中にある「清潔好き」は、細菌恐怖症のような予防処置とは限らない。病気の感染を予防するために箸を使うわけでも、ハグや握手をしたらあとで親密さの負い目を感じるから御辞儀ですませるわけでもない。そういう面もあるだろうが、日本には、予防として時間を先取りするよりも、発作的に生きるというか、当面の時間で動く傾向があり、普通はあまり先のことを考えないのである。

これもまた日本語という言語の本質と関わりがある。英語では、口を切ったときに何を言いたいのかを先取りしていないと「大人の言葉」になりにくい。日本語なら、“……なんて”、というような語を数語加えるだけで、前言を翻したり、ニュアンスを噛ませたりすることができる。言い方の中に「距離」を潜ませて嫌味を言うのも日本語の得意とするところだ。

百年の計というのが「日本的」ではないのもこのことと関係がある。100年も200年ももつ家を建てるのは日本では流行らない。それは、地震国だからという説明もあるが、和辻哲郎さんには悪いが、文化を風土に還元する思考は安易すぎる。むしろ、最後にひっくり返すことができる日本語表現のように、いつでも取り壊しができるような建物を求める刹那志向が働いているのであり、それが、組織や制度全般に染み込んでいる。それは、憲法改正も同じで、本体はそのまま修正条項で補修して使うのではなく、「新築」への願望がそうさせるのである。「名作」の翻訳も、頻繁に新訳をしないではいられないのも同じ原理からだ。

しかし、日本語は、その表層が微妙で多様性に満ちているわりに、その核は頑迷なまでに硬く、変化する度合いが低い。何語でも取り込んでテニヲハでつなげば「日本語」になってしまう代わりに、言語構造自体が変わる可能性が限られている。つまり言語の突然変異が乏しい。ウイルスは、突然変異で感染相手を変え、生き延びるが、日本語が転化してほかの言語を変えてしまうほどの感染力を持つことはほとんどないのではないか? 「日本語英語」がよい例だ。それは、日本語を母語とする人が英語圏で生活するなかで生み出した独特の英語で、抑揚に乏しく、一見日本語を棒読みしたかのように響くのだが、語と文法は英語であり、英語としてちゃんと通じるのである。しかし、これは、日本語が英語に住み込んだのではなく、英語が日本語に住み込み、日本語を変えてしまったのだと思う。この点で、英語の伝染力はウイルス的だった。

しかし、今、この伝染力は、Covid-19によってその存続をも危うくされそうである。とすると、英語の次世代言語は何か? それは、コンピュータの「機械言語」でしょう。Covid-19と「話」ができるのもこの言語だけである。



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