【平野紫耀/クロサギ論】感情や感覚を超えた先の“臨場”に、揺さぶられる。
12月23日に最終回が放送されたドラマ『クロサギ』(TBS)。そこで主演を務めていたのがKing & Princeの平野紫耀だ。
ドラマや映画で数々の主演経験を持つ、彼の俳優としての才能はどこにあるのか。QJWebにて連載「告白的男優論」で数々の俳優の魅力に迫ってきたライターの相田冬二が、俳優・平野紫耀と真正面から対峙する。
平野紫耀の才能を信じて攻めた『クロサギ』
『クロサギ』が終わった。
私がこのドラマに出逢ったのは、11月2週目のことだったので、2カ月にも満たない付き合いだったが、久しぶりに見応えのある、そして、新しいときめきに満ちた作品だった。
かなり大胆に振り切ったドラマで、それはリメイク(オリジナル版は2006年の山下智久主演作)だから可能になった面もあるかもしれない。基本的に守りに入らない、攻めた方向性がキープされていた。
攻めた作品は、エネルギーが拡散しない。なぜなら、ポイントが絞られているからだ。
各方面に留意した守りの作品は、安定したおもしろさはあるものの、要素一つひとつで観る者を満足させようとする慎重さ、もっと言ってしまえば、用意周到さが鼻につく。工業製品のような物足りなさがあり、本能が感じ取れない。
『クロサギ』には、あれもこれもと欲張り、全方位的な満足を与えるようなフォーマットを、あらかじめ放棄しているような潔さがあった。つまり、総合的な判断ではなく、一点突破的な戦術。この、言ってみれば、かなり強引な舵の切り方が、澄み切った牽引力につながった。
ひと言で言えば、これはとても気持ちのいいドラマなのだ。
社会風刺もあれば、世間に潜伏する危険を警告する側面もある。愛や友情のようなもの、擬似も含めた家族の関係性を縦横斜めから照射したりもする。各キャラクターはきめが細かく、彫りが深く、「被写界深度」に優れたドラマであることも重要な点だ。
だが、こうしたファクターは言ってみれば、すべてトッピングのようなもので、それらをフォローするために本質を疎かにはしない。
結局、ラーメンはスープと麺だろ。そんな身も蓋もない真理を、『クロサギ』は堂々と提示した。
芝居を見ろ。
『クロサギ』というドラマの全身に漲っているのは、このテーゼ(命題)にほかならない。
詐欺師が詐欺師を騙す。この主軸を忘れることなく、あくまでも演技と演技の睨み合いを凝視した。この指針が、主人公と彼が騙す相手との対峙だけではなく、彼をめぐる人々との関わり合いを豊かなものにした。
これはドラマに限らず、映画にもいえることだが、視聴者も観客も、芝居を見ていない。筋を追い、セリフを吟味し、映像に耽溺したりはするが、演技そのものを見つめるということを忘れている。SNSに飛び交うのは、重箱の隅をつつくような「自分だけが知っている情報」ばかり。あるいは、ぼんやり眺めていれば誰でもわかることの「手際のいい要約」である。「情報」や「要約」に忙しく、演技表現は無視されているに等しい。
『クロサギ』は、演技者が映像フィクションを創っているのだという、本来なら「当たり前」だったことを思い出させてくれた。
物語や言葉や光や影よりも大切なものがある。
それが、演技。
『クロサギ』の平野紫耀は、この真実を明るみにした。だから、新しいときめきが生まれた。そして、『クロサギ』という作品は、平野紫耀の才能を信じ、託した。だから、とてつもない波動が巻き起こったのだ。
平野紫耀からの“決闘の申し込み”
私は、平野紫耀という俳優を『クロサギ』でしか見たことがない。なので、彼の表現を、彼のほかの出演作も踏まえて語ることはできない。これから書くことは全部、『クロサギ』のことであり、『クロサギ』にしか判断材料はないが、映像で芝居を観る醍醐味をこれでもか!というほど味わえる稀有な演じ手だと断言できる。
芝居には、感情芝居と感覚芝居がある。
登場人物の感情に寄り添って、時には没入して、人間の感情の世界に誘うような表現。これが感情芝居である。多くの視聴者や観客が好むのは、感情芝居だろう。「感情移入」という言葉があるが、移入するのは演じ手ではなく観る側である。「感情移入」したつもりになれる芝居が、消費者にとっては好都合だからだ。
一方で、演技者が演技者の感覚でキャラクターや世界観を捉え、解釈する表現もある。これは、感情芝居が多くの場合、成り切り芝居へと傾斜するのとは対照的に、それぞれのアングルや批評、つまり「アプローチ」が感じられるもので、これを感覚芝居という。私が連載【告白的男優論】で取り上げた28名はほぼ全員、感覚芝居の遣い手である。
感覚芝居には独自性がある。なので好き嫌いも生まれるが、感情芝居では到達できない感動がある。だが、演技とは感情を表すものだ、という思い込みに支配されている人には受信できないものでもある。
感覚芝居のできる人は優れた表現者ばかりなので、当然、感情芝居もできる。なので、感情芝居もこなしながら、感覚芝居をしている。采配、である。なぜなら、感覚芝居だけでは、ほとんどの視聴者や観客が「共感」という落ち着きのいい場所を確保できないからだ。むしろ、その取り混ぜ方、緩急なども、技術の発露となっている。
平野は一見、感覚芝居の名手に映る。だが、違う。もちろん、感情芝居でもない。
彼は、感覚芝居でも感情芝居でもない領域から、演技を繰り出している。このことに終始、驚きつづけた。それが私にとっての『クロサギ』体験だった。
まず、第一に指摘しておかなければいけないのは【臨場感】である。
平野紫耀は、相対する演じ手との間に、まるでドキュメントのような時間を派生させる。それは、完全に創り上げられた虚構の人物であり、そこでやりとりされている感情にしろ感覚にしろ、すべては作りものである。
にもかかわらず、いや、だからこそ、今そこで【演じられている】迫真の現場が立ち上がる。大げさでもなんでもなく、それは命の交わし合いと呼んでいいほどの、緊迫である。
無論、共演者たちは、レギュラー陣、ゲスト陣問わず、全員、この平野紫耀からの【決闘の申し込み】を受けて立つ。
役者であれば、あの【果たし状】を前に、本気を出さぬ者などいるはずもない。あえて名前は列挙しないが、誰もが、名演、妙演、力演を、惜しみなく、平野に返している。
もし、平野紫耀がテニスプレイヤーだとすれば、彼の渾身のサーブに、追いつき、くらいつき、あくまでも華麗に打ち返している。
この命と命のやりとりに、性差も、年齢差も、ない。女優も、ベテランも、平野紫耀の【真剣】の前で、等価の存在になる。そこでは演じる者全員が、等しく価値を与えられている。どちらが勝つとか、そういうつまらないことではなく、それぞれがそれぞれとして輝く【持ち場】が誕生している。それぞれの味が、立つ。一人ひとりが、世界でただひとりの演技者なのだということを私たちは体感する。
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