“セクハラおじさん”をディスる男性に言われた「今日、なんで生理なの?」。なぜ彼らは己の矛盾に気づかないのか
女性へのヘイトを剥き出しにしてぶつけてくる人たちは論外だけど、たとえ「自分は女性のことを思いやっている」とアピールしてくる人であっても、それを実際の行動に移せるかどうかはわからないものだと思う。私が以前マッチングアプリで知り合った33歳の彼も、ちょうどそんな感じだった。
“セクハラおじさん”を批判する彼に思った「この人はまともかもしれない」
彼は、世間的に見て自分が「おじさん」の年齢であることを自覚しているのか、いわゆる「有害なおじさん」へと成長してしまわないようにしている様子だった。加えて、自分と同じ世代の、女性にセクハラをする男性について嫌悪感を抱いていたようだった。
「気持ち悪いよね、本当に嫌いだわ」
「でも、君みたいに若くてちゃんと話もできる女の子、おじさんはアクセサリー感覚で隣に置いておきたいんだろうね。気持ち悪いわー」
「俺も将来はそうなっちゃうのかな。俺だってもう、おじさんの年齢なんだけどさ」
私が仕事関係で出会ったセクハラおじさんについて話すと、彼はそう言った。あー、よかった。この人はまともかもしれない。ホッとして「いやいや、あなたは大丈夫ですよ。全然セクハラおじさんじゃないですよ」と、そのときは本心から返事した。
『シン・ウルトラマン』の“あのシーン”に抱いた不快感
彼は映画が好きだそうで、「友人に『お前は気になった人をすぐに映画に誘うよな』って言われるんだよね」と話してきた。一緒に観たあとに内容について話すのが好きなんだ、別にお互いの感想が良いとか悪いとかじゃなくて、相手がどう感じたか聞きたいんだよね、と。
その流れで、最近観た映画『シン・ウルトラマン』について思っていた不満を彼にぶつけてみた。映画の中では、キャストである長澤まさみへのセクハラとも感じられる描写がいくつもあった。お尻をアップしたカットや、巨大化した長澤まさみを下からのアングルで撮ったりと、ストーリー以前に気になる部分があり過ぎて、作品を心から楽しめなかったのだ。
彼も私と同意見らしく「あの巨大化はいらないよね。すごい気持ち悪くて、その気持ち悪さを確認するために3回観ちゃったもん」なんて語っていた。気持ち悪いと思った映画、何回も観るものなのかな。私に話を合わせてるだけなのか。少し疑問に思ったけど、そういうものなのかな、と受け止めた。そんな疑問よりも、自分が思っていたことと同じ意見を持っている男性がいることに安心していた。
「君はちゃんと自分を持っていて、ひとつの作品を観ただけでもいろんな感想が浮かんで、偉くてカッコいいよ。俺、そういう人好きなんだよね」
このときは彼の言葉が素直にうれしくて、また会う約束をして別れた。
“まとも”だと思っていた彼は“ヤバいやつ”だった
最後に会ってから1カ月ほど経ったある金曜日。深夜1時に彼はいきなり電話をしてきた。かなり酔っている様子だった。今、私の最寄り駅の近くにいて、会いたくて電話をしたんだと。家に来るのはいいけど、あいにく今日は生理だよ。そう伝えると、彼は不本意だという様子でこう言った。「違うから、そういうんじゃないから」「何かアイス買っていくから」。
電話を切ってから、10分程度で彼はやってきた。なんのアイスを買ってきたのか、渡されたコンビニの袋をのぞくと、そこには氷結2缶とコンドームが入っていた。
まったく予想していなかった中身で、固まってしまった。挙句の果てに彼は、「今日、なんで生理なの?」と吐き捨てた。なんなんだ、こいつ。ヤバ過ぎる。彼が帰ったあと、怒りとか、悲しみとか、自己嫌悪とか、いろんな気持ちがぐるぐるして、めちゃくちゃ体調不良になった。気分の上がり下がりもひどくなった。
1週間経っても感情は収まらず、どうしようもなくなって、彼にLINEで自分の正直な気持ちをぶつけた。すると「ごめん、元気そうだったから大丈夫だと思った」「調子乗り過ぎた」「迷惑かけてごめんね!」といった返事が来た。
正直、もうちょっとマシな謝罪をしてくれると期待していた。だって、しつこいくらいに「最低なおじさんたちと、僕は違うんだよ。安心して」なんてことを言っていたのに。この一連を、私と最初に会った日の自分に聞かせられるのだろうか。
言葉と行動が伴っていない彼のダサさがものすごく気持ち悪いのと、そんな彼に好意を抱いていた自分が恥ずかしくて、気持ちがスッと冷めていった。
たぶん彼は、本心から女性に対する思いやりを持っていたわけではなかったんだろう。女性に対して無神経にセクハラをしてくるおじさんに嫌悪感を抱いているのは、思いやりからではなく、ただ自分を「世間から“有害”と見なされるおじさんたち」と一緒に扱われるのが嫌だっただけなのだろうなと気づいた。
仮に彼が、セクハラに対して本気で怒りを感じていたとしたら、どうやったって自分自身の矛盾に気づくのではないか。そうであれば、ほかに向けている怒りの矛先を、まずは自分へ向けるはずなのに。
私にセクハラをしたおじさんについても、『シン・ウルトラマン』の演出についても、「自分がそうなり得るかもしれない」なんて危機感を一切持っていないからあんな偉そうに、気持ちよさそうに批判ができたんだろう。彼はじゅうぶんに、そのどちらの要素も兼ね備えているというのに。