パチはすべての人間に平等である
まず第一に知ってもらいたいのは、パチンコ・パチスロは「すべての人間に平等」ということだ。この世に存在するすべての遊技の中で、素人がプロに勝てる数少ないもののひとつがパチなのだ。
パチンコはヘソに玉が入った時点で、パチスロはレバーを叩いた時点で、内部的に当たるか外れるかはすでに決まっている。別におじさんが回そうが、菅田将暉が回そうが、石原さとみが回そうが、結果は変わらない。台の前ではすべてが平等。パチンコ・パチスロに差別や偏見は一切ない。性別も年齢も家柄も国籍も外見も年収も過去も、何もかも全部関係なく、乗り越えられるのがパチンコ・パチスロなのだ。もはや「Pachiとは恋と同義」と言っても過言ではない。
パチンコ・パチスロはすべてのユーザーを肯定し否定する。福沢諭吉が数分で溶けていくあの感覚はもう二度と味わいたくないものだし、1000回転回してもまったく当たらない自分の隣で、老人が開始数回転で大当たりを引き当てたのを目の当たりにした絶望感はまさに地獄と形容するに相応しい。
しかし、それに反比例するかのごとく、大当たりが連チャンしているときの「俺は今世界で一番輝いている」という無敵感は唯一無二だった。先ほども言ったとおり、パチンコ・パチスロには己の力は一切介入していない。にもかかわらず当たりを引いたときのとてつもないほどの「やってやった感」、ただハンドルを握っているだけで、ただレバーを叩きボタンを押しているだけで、時にアニメのキャラクターが、時にあのヒーローが、時にあの有名俳優やミュージシャンが、時に森の動物たちが、俺に対し「おめでとう!」「よくやった!」「Congratulations!」と激励の言葉を投げかけてくる。「人は生きているだけで素晴らしい」を実感できる数少ない瞬間だ。こんなにも感情をプラスにもマイナスにも揺さぶってくる遊技はパチンコ・パチスロだけだろう。
「恋は盲目」という言葉があるが、対象を好きになればなるほど嫌いな面は見えにくくなる。しかし、パチンコ・パチスロは違う。「俺は一生パチンコで食っていく」と言った次の日には「こんなもん二度とやるか糞が」と吐き捨てている大人を何人も見てきた。大好きが一瞬で大嫌いに変わるのがパチンコ・パチスロなのだ。そして、打ち方ひとつでその人間がどういう人生を歩んできたのか、どういう性格なのか、それがすべて透けて見えてくる。字幕の色や、ランプの点灯で狂喜乱舞しているのを見ているだけでその人間の素の部分まで見ているような気分になってくる。パチンコ・パチスロというのは人を映す鏡のようなものなのかもしれない。それを「人を笑わせるプロ」である芸人がやっているのだからおもしろくないわけがない。
粗品は正確無比の絶対音感でジャグラーの払い出し音のモノマネをし、かまいたちはケンシロウの背後に映る雲の動きに一喜一憂し、もぐらと岡野は仕事を忘れスタッフに借金をしながら台を打ちつづけ、村上は「スロットのかっこいい打ち方」を有名塾講師のように教えていた。そして、そのどれもがパチンコ・パチスロに対する尋常ならざるほどの愛があった。その愛の深さが本物だからこそ、視聴者はパチを知らなくても吸い寄せられるように動画を再生するのかもしれない。
パチンコもパチスロも、やらなくていいなら一生やらないほうがいいと思うし、他人に気軽に勧められるようなものではないと思う。しかし「パチを打つ芸人の姿は本当におもしろい」ということだけは心から言える。そこには良くも悪くも、紛れもない愛がある。