完全再現は不可能。『鋼の錬金術師 完結編』がそれでもマンガ実写化の成功例である理由
人気マンガが実写化されるたびに寄せられる、賛否両論の声。今年公開された『鋼の錬金術師』の映画版『鋼の錬金術師 完結編 復讐者スカー』(2022年5月公開)『鋼の錬金術師 完結編 最後の錬成』(2022年6月公開)に対しても、さまざまな反応が聞かれた。
ではマンガの実写化作品において、どのようなポイントが評価の命運を分けるのだろうか。本稿では『鋼の錬金術師』原作の大ファンである筆者が、同作の映画版完結編2部作を“マンガ実写化の成功例”と感じたその理由について考察する。
目次
思い入れのあるマンガ作品の実写化に抱く、一抹の不安
『鋼の錬金術師』が大好きだ。
あまりにも好き過ぎて、昨年から始動した連載20周年プロジェクトのイベントやグッズに課金しまくった結果、身をもって「持っていかれた……!!」を体験。それでも「大人になった今、私ハガレンやってるわ」などとポジティブ変換するほど、『鋼の錬金術師』に関わるすべてを愛している。
だが、そんな私でもたったひとつだけ、手放しでは喜べないイベントがあった。それが、同作の映画版『鋼の錬金術師 完結編 復讐者スカー』『鋼の錬金術師 完結編 最後の錬成』の公開だった。
好きだからこそ目が行く“再現されなかった部分”
2017年にも実写映画が公開された『鋼の錬金術師』。同作は、興行収入こそ約12億円という好成績を記録したものの、「映画.com」では2.5、「Filmarks」では2.6と、映画情報サイトのレビュー上にはお世辞にもいい評判とは言えない結果が現れた。
「そもそも『鋼の錬金術師』のような西洋ファンタジーを、日本人キャストが演じること自体に無理がある」という意見、あるいは「あのシーンがない」「あのセリフはどうした」など、カットされた部分について追及する声も多かった。だから、完結編公開決定のニュースが発表されたときも、SNSには多くの否定的なコメントが寄せられていたように思う。
実写映画化された原作に思い入れがあればあるほど、私たちはどうしても“再現されなかった部分”に目が行ってしまう。『鋼の錬金術師 完結編 復讐者スカー』『鋼の錬金術師 完結編 最後の錬成』を観ていたとき、私も心の中でついつい“再現されなかった部分”を見つけては、細かくツッコミを入れてしまった。
だがそれでも『鋼の錬金術師 完結編』は、そんな“再現されなかった部分”を跳ね除けるくらい、いい部分が沢山あった。もう、めちゃくちゃよかった。それは本作から、原作の完全再現に留まらない、芯の通った“映画的解釈”が感じられたからだったように思う。
実写化作品に問われるポイントは?
2017年に公開された映画版第1作目では、原作全27巻のうち1〜8巻までの物語が描かれていた。物語を改変せず、原作どおりに映画を作るのであれば、完結編2部作では残り19巻分を一気に描く必要がある。だが、映画1本が大体120分ほどの尺だとすると、2本分の240分で19巻分を完全再現するのはどう考えても不可能だろう。
となると、原作のどの部分にフォーカスするのか、絶対にカットしてはいけない部分はどこなのかといった、映画というフォーマットで『鋼の錬金術師』を再構築するためのいわゆる“映画的解釈”が重要になってくる。
では『鋼の錬金術師 完結編 復讐者スカー』『鋼の錬金術師 完結編 最後の錬成』とは、いったい『鋼の錬金術師』をどのように解釈した映画だったのだろうか?
映画ならではの表現が、原作のメッセージを強化する
まず『鋼の錬金術師 完結編 復讐者スカー』は、冒頭からものすごい勢いで役者がそろっていく。主要キャラクターでありながら、第1作目では惜しくも描かれなかったスカー。そしてリンやメイ・チャンといった通称・シン国組。正直、最終話に向けて絶対に欠かせないメンバーを一気に総動員させていく無理やり感はなきにしもあらず……。
だが、原作では単行本15巻まるまる一冊を使って描かれたほど『鋼の錬金術師』という物語において絶対にカットしてはならない“イシュヴァール殲滅戦”がどこまでも丁寧に、リアルに、そして残酷に描かれていた。特に、国家錬金術師を総動員してイシュヴァール人を迫害していく様子など、生身の人間が演じる実写映画だからこそ、その凄惨さが原作以上に伝わるといった利点も見られた。
そして『鋼の錬金術師』という作品において“すべての始まり”といっても過言ではない、ヴァン・ホーエンハイムとお父様(通称・フラスコの中の小人)の出会いが、『鋼の錬金術師 完結編 最後の錬成』では内野聖陽さんと山田涼介さんのWキャストで鮮烈に描かれていたところも、評価すべきポイントだ。
主人公のエドワード・エルリックと、その弟アルフォンスの父親であるホーエンハイム。ふたりが幼いころに家を出て以来、ずっとひとりで旅をつづけている謎多き人物。どっしりとしたオーラを放ちながらも、突拍子もない行動や発言でまわりを驚かせる……。そんな掴めないところが彼の魅力だ。だが、ホーエンハイムを演じる内野聖陽さんは、そんな彼のキャラクターだけではなく、時折物憂げな表情を浮かべることで、その先に描かれる“すべての始まり”と彼が背負っているものの重さを匂わせた。
そこから、物語はホーエンハイムの若かりしころに遡る。彼の少年期を演じるのは、エドワード・エルリックを演じる山田涼介さんだ。親子だからか、原作でもエドワードとホーエンハイムは、顔や雰囲気などは似せたように描かれていた。だが、少年期のホーエンハイムはクセルクセスという国で奴隷をしていたという設定。知識はもちろん、名前すらも持たない若き日のホーエンハイム。現状に甘んじて生きていた彼だったが、フラスコの中の小人と出会ったことで「言葉や計算がわかる知識が欲しい」「地位が欲しい」など、人間らしい欲望を徐々に宿していく。山田涼介さんはエドワードではなく、完全にホーエンハイムとして、そんな絶妙な表情の移ろいを器用に演じ切っていた。
ほかにも本作には、映画表現ならではの醍醐味が見受けられた。
フラスコの中の小人のおかげで、知識だけではなく、錬金術まで使えるようになったホーエンハイム。ある日、不老不死を望むクセルクセス国王のため、フラスコの中の小人から教えてもらった錬成陣を発動したところ、国民すべてを巻き込んで賢者の石を錬成してしまう。その代償に、ホーエンハイムは自分だけが不老不死となって生き延びてしまい、フラスコの中の小人はホーエンハイムの体を借りてホムンクルスとして自由に動き回れる人型として独立。以降、フラスコの中の小人は神に近い完全体になるべく、先述の“イシュヴァール殲滅戦”などを企てる。
本作では、そんなフラスコの中の小人にそそのかされて起きたクセルクセス国の悲劇を、パート1からパワーアップしたCGによる緻密な街の作り込みによって、圧倒的スケールで表現していた。
「人は何かの犠牲なしに何も得る事などできない」
原作の第1話には、このようなセリフが登場する。
痛みを伴わない教訓には意義がない 人は何かの犠牲なしに何も得る事などできないのだから
『鋼の錬金術師』第1巻より
このセリフから伝えられる、何かを手に入れたいと思う誰かの願いや欲望、そしてそれに対する犠牲や痛みの存在は、その後も『鋼の錬金術師』という物語の根幹を成していく重要なメッセージだ。そして、先ほど触れた“イシュヴァール殲滅戦”や“すべての始まり”といったエピソードは、その犠牲や痛みを象徴する『鋼の錬金術師』において絶対に欠かせない物語なのである。
だからこそ“イシュヴァール殲滅戦”や“すべての始まり”に重きを置く『鋼の錬金術師 完結編 復讐者スカー』『鋼の錬金術師 完結編 最後の錬成』とは、原作を完全再現するのではなく、原作の根幹となるメッセージを最大限に汲み取った映画だといえる。さらに、そのメッセージと切っても切り離せない物語を、二次元ではなく三次元の人間が演じることで、原作以上に深みのあるものに仕上げる……。それが、原作ファンである筆者が本作から感じた“映画的解釈”だった。
原作への愛と誠意をいかにして示すか
日本映画界において、もはや当たり前となった人気マンガの実写映画化。数ある実写映画化作品の中でも、『鋼の錬金術師 完結編』は、新しい成功例として名を刻むことだろう。
原作の根幹となるメッセージを最大限に汲み取る、そんな原作への愛と誠意にあふれた実写映画が増えることを切に願う。