『ドクター・ストレンジ』は日本なら『ドラえもん』?マルチバースによる“調整”の成否はサム・ライミの手腕次第か
2022年5月4日公開となった『ドクター・ストレンジ/マルチバース・オブ・マッドネス』。MCU(マーベル・シネマティック・ユニバース)最新作であり、マルチバースと呼ばれるパラレルワールドから“もうひとりのドクター・ストレンジ”が登場することが明かされている。
マルチバースとはどんなものなのか? 『死霊のはらわた』で知られるサム・ライミが監督を務める理由、そして日本にもあったマルチバース作品などを振り返りながら、今作が果たす役割と見どころをレビューする。
※この記事は映画鑑賞前に執筆されたネタバレなしのレビューとなります。
目次
フューリーは白人だった?マルチバースで広がる世界観
『ドクター・ストレンジ/マルチバース・オブ・マッドネス』(以下『ドクター・ストレンジMoM』)で描かれるマルチバース(多元宇宙論)というのは、非常に便利な設定として昔からアメコミ界では多用されてきた。シリーズが長くつづいていると、時代の風潮に合わなくなったり、設定につじつまが合わなくなることもしばしば。そこで再構築(リランチ)時に「今までの世界は、実は別の世界の話だった」とされることが多かったりもする。
その際に人種やジェンダー意識のアップデートによって、キャラクター設定が変更されることもある。たとえばMCU(マーベル・シネマティック・ユニバース)ではサミュエル・L・ジャクソンでおなじみのニック・フューリー。今ではすっかり黒人という印象が定着しているが、2000年に出版された『アルティメッツ』以前は白人の設定であった。
実際に1998年のテレビ映画『ニック・フューリー:エージェント・オブ・シールド』では、デヴィッド・ハッセルホフが演じ、名前だけが言及されている2003年のアン・リー版『ハルク』にも、登場するとしたら白人の俳優がキャスティングされる予定だったという。
ほかにもダークホースコミックスの『スーパーマンVSエイリアン』や『バットマンVSプレデター』などのように、メインのストーリーラインとはつながらずあくまで別世界の物語として描かれている作品も、マルチバース設定だから可能となることだ。
『ドクター・ストレンジ』は“調整映画”として機能する
今まで実現できなかったキャラクター同士の夢の共演を実現できるという、娯楽性の観点からの画的なおもしろさは追及できる一方で、リランチによっての不具合をさらにリランチすることで収集がつかなくなり、泥沼化することもないとは言い切れない。
映画やドラマとなればそれはさらに深刻な話で、シリーズ自体を崩壊に導く可能性もある。単発作品ならまたリセットすればいい話かもしれないが、MCUのように長年かけて築き上げた地盤は、そう簡単にリセットできるものではないし、制作陣もそれは望んではいないだろう。
そう考えると、今までMCUがマルチバース設定を取り込むのに慎重になっていた理由も理解できるのではないだろうか。
ディズニーは2019年にFOXを買収したことによって、『ファンタスティック・フォー』や『X-MEN』シリーズも統合できる状態にはなったものの、これまで演じていたキャストをそのまま使うには、今後のMCUにおいて不具合が生じる可能性もある。つまり『ドクター・ストレンジMoM』は今までの旧キャストを別世界のものとして、MCU版へ新キャストを移行させる“調整映画”としても機能しているのではないだろうか。
今回『X-MEN』シリーズでプロフェッサーXを演じるパトリック・スチュワートが出演していることを、本人が早々に公表していたが、逆にいえば、今作が見納めになる可能性も高いということだ。
この“調整”がMCUの未来の希望につながるのか、それとも崩壊につながるか。今作がその分岐点であることは間違いない。
マーベルが『ドクター・ストレンジ』の実写化に慎重だった理由
『ドクター・ストレンジ』の実写化は1978年のテレビ映画として一度実現しているが、その後も何度か企画が浮上しては消えてを繰り返し、MCUシリーズが開始した2000年代からも常に模索されてきた。
一度具体化しかけたのは、『アイアンマン』『インクレディブル・ハルク』の公開後に、映画化が難しい扱いの作品部類として脚本が公募された際だ。具体的に話が進むかとも思われたが、そのときの企画も実現には至らなかった……。
『ドクター・ストレンジ』の実写化はなぜ難しかったのか?
当時のMCUでは『アイアンマン』『インクレディブル・ハルク』など、どちらかといえば科学的な方向性から描かれることが多かった。その次に公開された『キャプテン・アメリカ/ザ・ファースト・アベンジャー』も同様だ。つづく『マイティ・ソー』はコミックファンとしてはマーベルに欠かせないキャラクターであるが、“神”という存在を登場させるだけでもハードルが高かった。
魔術とマルチバースという要素を持ったストレンジを合流させれば、さらに世界観が散らばり過ぎてしまう。そのため着手するには、かなりの時間を要したのだ。
結果的には時間を置いてよかったと思う。『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』によって宇宙の要素も加わり、いよいよ「なんでもあり」になってきていたところを、さらに「なんでもあり」で歯止めをかけることで、逆に説得力を持たせることに成功したのだから。しかし、問題はここからだ……。Disney+のドラマシリーズなども巻き込んで急激に拡張し始めているMCUを生かすも殺すもマルチバースの扱い方による。
おもしろいことに、今作でのストレンジの判断が、製作側の判断とメタ的にリンクするのだ。