『服と賢一』で気づかされる“いかに今を楽しむか”
そもそも滝藤は、いや私たちは、なぜ服を着ることを楽しもうとするのか?
服を選び、着る、という行為は、さまざまな意図によって起こるものだ。私たちは目的に合わせて服を着替える。「誰かに見せたい!」という欲求を持つ人がいれば、「組織の中で地位を示すため」という理由もあるだろうし、「社会における“自己”を主張(確立)するため」という者もあるだろう。しかし純粋に、「着ていて気分がいい」という側面もあるはずだ。
滝藤の“ファッション観”に触れて思うのは、「ああ、この人は自ら服を選んで着ることを、とことん楽しんでいるな」ということだ。つまり彼は、“自分のため”に服を着ているのである。
本書で滝藤も学生時代の話に言及しているが、多くの人間は“制服を着崩す”ところからファッションを始め、自身の“スタイル”というものを生み出そうとしてきたはずだ。しかし年齢を重ねるごとにその大半が、社会の規範を意識するからか、自らに制限をかけていく。「◯歳にもなって、この服装はおかしい」「◯◯な職業の人間にこの格好は不適切」──といった具合に。
誰もがこの規範の中で、どうにかこうにか工夫してファッションを楽しんでいるのだと思う。けれどもプライベートに還れば、何歳でも、どんな職業でも、まわりの目を気にする必要はないはずだ。社会の規範から一時的にでも解放させてくれる、それが本来のファッションというものだろう。服を着る楽しみは、私たちをいろんなところへと連れて行ってくれる。
実際に滝藤だって、仕事のときには演じる役の衣装を身につけなければならないわけだ。本書に収められているのはコロナ禍での“173日間”だが、映画にドラマにCMに、この自粛期間にも滝藤を見ない日はなかった。それほど多忙な俳優だ。撮影現場に到着すれば、演じる役の衣装が用意されているはずで、日常生活では自分の好きなスタイルでいられるのはごくわずかな時間であるに違いない。
しかし、だからこそ彼は、自分自身に還ったときにこそより自由に、好きな服を好きなように着ることを楽しんでいるように見える。これは今のような時代にこそ必要な、“遊び心”なのではないかと思う。
『服と賢一』の冒頭に掲載されているエッセイは「ファッションはどんな人間に対しても平等ですから」と締め括られているのだが、確かにそうだ。ファッションは誰に対しても開かれている。自分がどうありたいかを示すのに、最も簡単で、最も有効な手段、それがファッションなのだ。
ファッションを楽しむのに年齢は関係ないと思うものの、同時に、滝藤の生き生きとした姿を見ていると、ページをめくるごとに年齢を重ねるのが楽しみで仕方なくなってくる。
ちなみに滝藤は、セレクトショップ「NEPENTHES(ネペンテス)」を愛しているようで、“滝藤スタイル”に欠かせないジャージが定番アイテムの「NEEDLES(ニードルズ)」や、「ENGINEERED GARMENTS(エンジニアドガーメンツ)」「SOUTH2 WEST8(サウスツーウエストエイト)」など、ネペンテス関連のブランドのアイテムを数多く(とんでもない数!)着用している。本書はネペンテスファン垂涎の一冊でもある。
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