“映画館で観る”ということの意味──濱口竜介&三宅唱が語る<ミニシアターの未来>

2021.2.8

映画の中に“テクスチャ”を発見することで開かれる世界

濱口 この3人で勉強会をやっているときに“テクスチャ”というワードが出たんです、ものの“キメ”というか。今まで映画を観るときにはじゅうぶんに感じることのできなかった、ものの“キメ”に対して感覚が伸びていく感じ、誘(いざな)われる感じが『ミツバチのささやき』にはあるんですよね。

本作が持つ独特な魅力を、そう言葉にする濱口監督。クローズアップで撮られたアナや子供たちの表情、あるいは引きで撮られたときの固定されたフレームの中に見える時間の“キメ”といった微細な要素が、「世界の触れ方を教えてくれている」という。

濱口 「誘われている感覚」というのは、劇中でアナのお父さんが、アナやイサベルにやっていたことともすごく似ているんですよね。あのお父さんは、毒キノコの見分け方を子供たちに教えますよね。模様がこうなっていたら毒キノコだから触っちゃダメとか。それって、世界の触れ方を教えてるんだと思うんです。テクスチャやキメのようなものを感じることで、世界をより感受できるように、父が娘を誘っている。この映画自体にも、そういう側面があると思います。

三浦哲哉(みうら・てつや)1976年、福島県出身。青山学院大学文学部比較芸術学科准教授。映画研究者。著書に『映画とは何か フランス映画思想史』(筑摩書房、2014年)、『『ハッピーアワー』論』(羽鳥書店、2018年)。『LAフード・ダイアリー』(講談社)を2021年2月24日に刊行予定

三浦 そこがこの作品のポイントだと思います。画面に映っているものを通して、今はもうないけどかつて存在していたものについて、ずっと想像しつづけることを強いる映画というか。それがエリセの映画の独特の心地のよさや心が開かれていく側面でもある。モノが魅力的ですよね。テーブルの上にかかっている布の質感とか。一つひとつの小物が1940年を舞台にしたこの映画に即した古さで、私たちはそれを観て過去を想像することができる。

三宅 家でブルーレイで観ても感動しなかったけど、映画館というこの箱の中で観るとゾクゾクする場面がすごくありますよね。終盤の、スクリーンの中を揺れ動く水と顔とか、ああいう“テクスチャによって感覚が誘われる”シーンがあって、それは映画館だからこそより感受できると思う。

“沈黙”は映画館じゃないと味わえない

『ミツバチのささやき』は言葉が少ないぶん“アナの目”という視覚的な要素によって語られるものが多いが、それに加えて濱口監督は「聴覚によって想起させられるものも多い」と話す。

濱口 眼差しやささやき、ある対象に辿り着くためにアナが走り出したりするところに、アナが全身で外の世界を感じ取ろうとする様があって、そこにずっと(世界の触れ方を)教えられる感じがある。こういうことが映画にはできるから、映画館に来てみようかしらとずっと思ってきたような気がします。

三浦 これはエリセではなくロベール・ブレッソンっていう映画監督が言ったことですけど、「トーキーは沈黙を発明した」と。家でブルーレイを観ていると、まわりがうるさいのでなかなか沈黙とか音に耳を澄ましづらい。今日の映画の邦題には“ささやき”という言葉がありますが、この、遠くの何かが耳元に届くのをじっと待つという感覚は、映画館でこそようやくわかるものだと思います。

三宅唱監督作/「きみの鳥はうたえる」 予告編

“映画の観方”とは?

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