「身体」の価値を森山未來に問い、広大な思考の宇宙へ放り出された【割れた窓のむこうに(折田侑駿)】

「身体」の価値を森山未來に問い、広大な思考の宇宙へ放り出された【割れた窓のむこうに(折田侑駿)】

文=折田侑駿 編集=森田真規


俳優として数々の作品に出演する一方、ダンサーとして「関係値から立ち上がる身体的表現」を掲げ、領域を横断して活動する森山未來。2026年10月開催の『MEET YOUR ART FESTIVAL 2026(以下、MYAF)』では、アートエキシビションのアーティスティック・ディレクターを務める。

1990年生まれの文筆家・折田侑駿による本連載では、ひとつのカルチャーや作品を通して浮かび上がる“社会”を見つめていく。第9回は、テクノロジーが進化する今、私たちにとって“身体”とは何か。身体の自由を制限された経験も重ね、森山への取材から、その価値と可能性を考える。

森山未來

森山未來
(もりやま・みらい)1984年、兵庫県生まれ。俳優。ダンサー。5歳からさまざまなジャンルのダンスを学び、15歳で本格的に舞台デビュー。『東京2020オリンピック』開会式ではオープニングソロパフォーマンスを担当した

この身体で知るということ

自分の身体が、ここにあるということ。それはいったい、どういうことなのか。当然のように生まれ持ったこの身体について、そんなことばかり考えている。

テクノロジーが加速度的な進化を重ね、アートフォームは多様化し、めまいがするほど刺激的なコンテンツが、この世にはあふれている。そんな今、プリミティブな人間の身体にこそ価値があるのではないか。いや、思いきったことをいってしまうと、私という人間のこの身体さえあればいいのではないか。そう思うようになってきた。なぜ、こうも「身体」に関心があるのか。そこには私の個人的な体験や、人生の歩みが関係している。

まずひとつは、こうして文章を書く仕事を生業にしていること。たとえば一本の映画について書く際、視覚と聴覚に頼るだけでいいのだろうかと、常に思ってきた。映画の撮影現場では、さまざまな思惑が交錯するなかでひとつのカットが生み出され、やがてシーンが立ち上がっていく。

完成した映画と対峙する劇場に私の身体はあるが、それは空調の効いた快適な、安心を約束された環境だ。安全地帯から対象を見つめるのではなく、何かしらの手段でできる限り肉薄すべきではないか。映画以外の対象についてもそうだ。つまり、頭で考えるだけでなく、この身体で知ることの必要性を感じ続けてきた。

それからコロナ禍の経験も、「身体」への関心と分かち難く結びついている。私とあなたの間には大きな距離が生まれ、肉体を介してコミュニケーションを取ることができなくなった。他者の温もりを思い出し、誰かに抱きしめられることへの憧れは、やはりこの身体への関心につながる。そして、これはとても個人的なものなのだが、病によって身体的な自由を制限された経験は非常に大きい。

さらに、自分たちの社会がインターネット空間へ移行しつつあるという事実だ。SNS上での個人の言動は、たちまち現実空間での個人の人物像とイコールで結ばれてしまう。しかし、SNS上に真の個人の実態があるとは思えないし、そもそもそこには肉体としての実体がない。インターネットやテクノロジーを前にしたとき、私たち一人ひとりの身体は希薄になるどころか、本来であればより際立つものだと考えている。

本連載では、特定のカルチャーや作品を「窓」として据え、そこから今の「社会」をのぞいてきた。ここで「身体」をテーマにすることは、連載開始時から考えていたことだ。

この第9回では、国内最大級のアートフェスティバルである『MEET YOUR ART FESTIVAL 2026』を窓とし、私たちの誰もがひとつずつ持っている「身体」というものを見つめ、その価値や可能性について考えてみたい。

唯一解のない私の問いかけに応じたのは、このフェスのアートエキシビションのアーティスティック・ディレクターであり、身体表現の実践者である森山未來だ。

取り残される身体、回帰する肉体

『MYAF』は、東京・天王洲運河一帯で開催される都市型のアートフェスだ。国内外から150名以上の気鋭アーティストが一堂に会し、多様な“アート”を軸に、食や音楽、ファッションなど、さまざまなカルチャーの交差点が立ち上がる。

『MEET YOUR ART FESTIVAL』2025年の開催時の様子
『MEET YOUR ART FESTIVAL』2025年の開催時の様子
『MEET YOUR ART FESTIVAL』2025年の開催時の様子
『MEET YOUR ART FESTIVAL』2025年の開催時の様子
『MEET YOUR ART FESTIVAL』2025年の開催時の様子
『MEET YOUR ART FESTIVAL』2025年の開催時の様子

そんな祭りが生まれて、今年で5周年。「ただ鑑賞するだけのフェスじゃないんですよ。アートフェアで琴線に触れる作品に出会ったならば、それを購入して持って帰ることもできますし。感覚を揺さぶるような作品に必ず出会えると思います」と、対面した森山は穏やかに口にした。

「昨年もアーティスティック・ディレクターの立場で参加させてもらったのですが、より深く関わるようになったのは今年から。『REFLUX たちのぼる兆し』というコンセプトタイトルのもと、吉田山さんと渡邊賢太郎さんというキュレーターとともに、話し合いを重ねながら全体の構成を考えるにあたり、視覚的な鑑賞のみに留まらない、非言語的インタラクションが織りなす空間をイメージしました。

たとえば招聘作家のひとり、山内祥太さんの展示作品『In Between…Us?』のコンセプトは“リゾーム=地下茎”です。地中で根が絡まり合う世界にはヒエラルキーがなく、互いに関係し合っている。それを説明的にではなく、作品とのインタラクションで知覚してもらう。そういったプログラムが展示空間内で連なっています」

出演者たちのパフォーマンスに個々の身体が必要なのはもちろんのこと、各アーティストの展示作品の中にも身体性を強く感じるものがある。そしてこうしたリアルな場では、さまざまなバックグラウンドを持つ来場者たちの身体が出会うことになる。『MYAF』と人間の身体の関係を、森山はどう考えているのか。

「『非言語的インタラクション』の延長線上、あるいはその核として、個人の感覚を揺さぶるような空間の中心には、やはりパフォーマンスがあるべきだと思っていました。鑑賞者の方々が、どんな期待や目的を持っているのかはさまざまです。ただ、同じ生身の人間の肉体でありながら、同時に作品でもある身体が存在することにより、眼前のアート作品からたちのぼる兆し/メッセージを、より自分事として捉えられると思うんです」

フェス空間に存在するパフォーマーの身体表現が、鑑賞者たちをアートの世界の深部に誘い、芸術鑑賞という体験を拡張させる。私たちとパフォーマーの間に固有の関係性が生まれ、やがて鑑賞者もアートの一部となる。私は森山の発言をそのように解釈し、拙い言葉で応答した。

すると彼は「現代アートを手がける涌井智仁という作家が、このフェスではパフォーマンスで参加することになっています。その彼と対話を重ねるなかで、興味深いことに気づかされたんですよ。自分なりに解釈してしまっている部分があるので、実際の彼の発言と多少ずれがあるかもしれないんですけど」と前置きした上で、次のように語った。

「近年、現代アートの潮流の中では、展示作品とパフォーマンスがセットになっている。そんな印象があると。展示だけで作品を成立させるのではなく、何かしらのイベント事を起こすこともセットにしているケースがとても多く、それは美術作品の強度が弱くなってきているからではないかと。そんな涌井くんの言葉を聞きながら、それは現代アーティストの力が弱くなったことが理由ではないのかもしれないな、と想像しました」

森山は言葉を選びながら、さらに続ける。

「人間の肉体を媒介としたパフォーマンスが強度を持っていると感じることは、現代のテクノロジーと人間の関係によるところが大きいと感じたんです。AIがまさにそうですけど、技術が発達すればするほど、自分たちの身体が置いていかれていく感覚がある。

それを知覚したときに、自分たちの持つ肉体に回帰しようという欲求が芽生えるのは、自然なことじゃないかと思うんです。それがもしかすると、現代アートの潮流の中にも危機感や切迫感として表れているのではないか。そんなことを思いました」

アバターを信じるように

先の森山の発言に、私は深くうなずいた。私たちの社会がインターネット空間へ移行したともいえる今、誰もが潜在的なレベルで、肉体への回帰を希求しているのではないかと日常的に感じていたからだ。

私は100kmのレースなどに出るランナーでもあるのだが、ランニングをするのは痛みや苦しみを通して、自分の身体がここにあるのだということを確かめる行為だとも捉えている。走るという行為は最もプリミティブなもので、都市で暮らしながらも束の間、都市生活が要請する“都市的身体”から解放されることができる。

日に日にランニングカルチャーが盛り上がっているのを肌で感じているが、これは人々が走るというプリミティブな行為を求めることと、生成AIによって人間離れした動きをする者たちの動画が氾濫する現状と、無関係ではないようにも思うのだ。

しかし一方で、VTuberの存在が広く浸透しているように、自身の声や身体の動きをデジタル空間にトレースし、この社会との接点を持つ人々もいる。画面上にあるのはアバターの姿かもしれないが、そこにはやはり身体がある。この身体を森山はどう捉えているのか。

「否定なんてしませんよ。だってそこにあるのは人間の想像力ですよね。みんなで生み出した共同幻想のようなものをシェアし合えてこそ、僕らは生き物として成立する存在だと思うんです。想像を共有し合うところからホモ・サピエンスは始まって、それが宗教や経済をも創造したわけじゃないですか。

画面上の身体とVTuberとして活動する本人の肉体が異なるものだったとしても、そのどちらもがあってこそ、人間なんだと思います。こうして現実世界で生きている身体そのものがなくなっていないうちは」

私が「身体」に強い関心を抱くようになった理由のひとつとして、身体的な自由を制限された経験が大きいと先に述べた。両足が原因不明の感染症にかかり、将来的にもずっと杖を手放せない生活を強いられることになるかもしれない。医師からそう告げられた経験があるのだ。

治癒までの道のりには言及しないが、結果として快方に向かい、今では過酷なマラソンレースに出場できるまでになった。ずいぶんと遠くまでやってきたものだが、精神的にも多大な負荷がかかる体験だったことを忘れることはない。そんななか、小劇場の舞台に立つ俳優たちの姿に夢を見た。

それまではセリフや物語ばかり追っていたが、しだいにそこに立っている人間そのものの存在や、身体の様態にばかり意識が向くようになった。あの当時の私はもしかすると、虚構の世界と溶け合う演者たちの姿に、個人的な何かを託していたのかもしれない。アバターを信じるように。

「あらゆる芸術の中で演劇は、言語によるセリフや物語が表立って存在しています。でもそれよりも手前に存在しているのが、演者の身体ですよね。劇場というリアルの場で、演者と観客の身体が同じ環境に虚構を介して存在することで、ようやく成立する芸術ですから。ご自身の身体に不自由を抱えていたとき、目の前の身体的な表現との間で何かが起きたんでしょうね」

「身体」は要約できない

こうして「身体」をテーマに原稿を書こうと思ったとき、私はどうしても森山に話を聞きたいと思った。彼は俳優として作品ごとにいくつもの役の人生を生き、心身の状態を変化させながら、ダンサー・森山未來としても踊り続けている。

人間の身体というものをどう考えているのか、この身体の価値や可能性についてどんなことを思っているのか、聞いてみたいと思ったのだ。そういうわけで半ば押しかけるようにして、私は『MYAF』の取材の場で「身体」に関する問いを投げかけ続けた。

だが、ここから少し流れが変わってくる。自分の身体というものを演者としてではなく、日常レベルで強く意識するようになったのは、いつ、どのようなタイミングだったのか。こう問いかけると、森山は言葉に詰まり始めた。

幼少期から身体表現に慣れ親しんできた彼なのだから、「気がついたら、いつの間にか」というのが正直なところなのだろう。ただこちらの意図としては、私が身体の不自由を余儀なくされ、舞台上の俳優たちの身体に心の底から憧れたように、「身体」というものの価値が大きく変わった瞬間について知りたかったのだ。

「どういうふうに言葉にすればいいんだろう」

それだけ口にすると、森山は深く考え込み始めた。長い沈黙が続く。取材でこのような経験は初めてだ。これは比喩ではなく、永遠のように感じる深い沈黙だった。踏み込んではいけない領域へと足を踏み入れてしまったのかと、私はうろたえる。

しばらくして再び口を開いた森山は、「ダンサーだからとか、身体を使った表現をしているからとか関係なく、みんなそんなに自分の身体に意識が向かないものなんですかね」とつぶやいた。

たくさん歩けば足が痛くなるし、肩甲骨をほぐせば肩まわりが楽になる。そうしたとき、たしかに私たちの意識は自らの身体に向かうだろう。けれども、私が足の病によって痛みを知覚したのと、その痛みを通して自らの足が、引いては自分の身体がここに存在することを理解し、意識するようになったのは、まったく別のことだと感じていた。

走っていて身体が限界を迎えるとき、私は日常のどの瞬間よりも、自分が今ここに存在していることを強く実感する。苦痛は身体の存在を際立たせ、自分が現実空間にいることをダイレクトに知らしめる。そんなふうなことを、私は必死になって訴えた。

これに応えようとする森山は、声にならない声をたびたび漏らしながら、「そうか、いや、ちょっと領域が広すぎるな……」と、彼もまた必死になって言葉を絞り出そうとする。が、どのように言葉をつなぎ、その軌跡を描くべきなのか、考えあぐねているようだった。

長い沈黙が続き、時折短い言葉を口にするも、そのあとが続かない。目の前の人が大切にしてきたものに、私は無遠慮に触れてしまったのかもしれない。改めて不安になる。しかも、この日この場にいる森山未來は、俳優とダンサーである以上に、『MYAF』のアーティスティック・ディレクターの立場で取材を受けているのだ。私は激しい喉の渇きを感じた。やがて、深い沈黙から言葉があふれてくる。

「役者としての身体と、ダンサーとしての身体、あるいは生活者としての身体は、それぞれがまったく違うものです。でもその一方で、すべてが密接につながり合ってもいる。どれも同じく僕の身体ですし、身体概念のようなものに関しても、間違いなくつながっている。

ただ、この身体というものは、個として考える身体なのか、それとも他者や周囲の環境と共有しているものとして考えるのかによって、その捉え方が変わってくるなと。ロゴス的に考える身体なのか、レンマ的に考える身体なのか。人間の持つ時間性の中だけで捉える身体なのか、あるいはもっと巨視的なフレームで捉える身体なのか。いったいどの角度から捉えるべきかを考え始めると、どうにも止まらなくなって。

ただ、聞かれているのはきっと僕の個人的なことなんだろうなと思いながらも、じゃあ今この瞬間の僕は、自分の身体をどういうものだと自覚しているのか。これについて考え始めると、やっぱり今はうまく言葉が出てこなくなって」

そうひと息に話すと、森山は目の前のペットボトルの水を勢いよくあおる。私が想像していた以上に、彼が意識を向けている「身体」とは壮大なものだった。私とは、身体を捉えるスケールも次元も異なるらしい。

頭上でまたたく星について私が考えていたのだとしたら、彼はその星と宇宙全体の関係について考えていた、というようなことかもしれない。圧倒され、めまいがした。

そんな森山がダンサーとして掲げているのは、「関係値から立ち上がる身体的表現」というもの。彼自身、この表現の立ち上げ方しかできないのだという。

「ソロ・パフォーマンスにしろ集団での創作にしろ、あるいは映像作品で役を演じることや、アーティスティック・ディレクターを務めることなど、さまざまなプロジェクトに、それぞれ異なる携わり方をしています。

自分が主体性を持って何かを表現するというのではなく、出会った人々や環境などの中で、周囲との関係性やコンポジションによって、表現が立ち上がっていく。そしてそれにより、自分の心も身体も自然と動いていく。この変化し続ける“動性”のようなものを、僕は自分自身の表現だと捉えているんです」

さらに森山は“器性(うつわせい)”という言葉を持ち出し、自身の身体について次のように語る。

「あくまでも自分は器なのであり、そこに何かが入ってくることによって、変化が生まれる。それが表現になり得る。東洋、または日本における身体を扱う表現の世界では、この“器性”が重要とされることがあります。そのことを最近もずっと考えています」

取材の終了時間が迫るなか、私は目の前の森山と対峙しながら、どこか広大な空間へと放り出されていた。唾を飲み込み、胸をさすり、今ここに自分がいることを確認する。そうしてどうにか口から音を発し、身体に関する自身の思考をまとめる気はないのかと森山に聞いてみた。

興味はあるらしいが、まとめられる気がしないという。たしかにそうなのだろう。考えれば考えるほどに、宇宙が広がる。「身体」は要約できないのだ。改めて、自分のこの身体さえあればいいのではないか──ここには途方もない価値と可能性があるのだから。

『MEET YOUR ART FESTIVAL 2026』

『MEET YOUR ART FESTIVAL 2026』キービジュアル

日程:2026年10月9日(金)〜 12日(月・祝)
場所:東京・天王洲運河一帯
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アートエキシビション「REFLUX たちのぼる兆し」|寺田倉庫 G1-5F
アートフェア「MEET YOUR ARTISTS」|寺田倉庫 B&C HALL
アートフェア「CO-CROSSOVER -Romantic beyond us (earth)-」|寺田倉庫 D HALL
ライブパフォーマンス|T-LOTUS M
トークセッション|WHAT CAFE
マーケット「SUPER ART & CRAFT MARKET」|WHAT CAFE/ボードウォーク/ボンドストリート
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公式ホームページ:https://avex.jp/meetyourart/festival/
チケット:https://avex.jp/meetyourart/festival/tickets/

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折田侑駿

(おりた・ゆうしゅん)文筆家。1990年生まれ。主な守備範囲は、映画、演劇、俳優、文学、服飾、酒場など。映画の劇場パンフレットなどに多数寄稿。映画トーク番組『活弁シネマ倶楽部』ではMCを務めている。