「より自由に他者と生きる道」物語が描く愛を媒介としない“同居”とは
家族、もしくは家族以外の人が同じ家に一緒に住むことを指す「同居」。実社会ではある一定のイメージを持つ状況だが、物語ではどんな種類の「同居」が存在するのだろうか。
アナキスト/フェミニストの高島鈴が「愛」と呼ばれるものを解体し、万人に開かれた革命を目指すコンテンツ批評。今回は、物語に描かれるさまざまな形の「同居」を読み解く。
※この記事は『クイック・ジャパン』vol.160に掲載のコラムを転載したものです。
社会が「同居」に抱く奇妙な文脈
人と人とがともに暮らす。言ってしまえばそれだけのことなのに、なぜかこの社会では、そこに奇妙な文脈がまとわりついてくる。「異性」がともに暮らせば「同棲」と言われ、沈黙のうちに「結婚」への道筋を予測されている。「同性」でともに暮らせば「ルームシェア」と呼ばれ、瓦解する可能性の高い関係、ないしは円満であってもいずれ必ず解消される関係として扱われる。あるいは家族なる集団は、愛の名のもとに同じ家に住まうことを推奨される(「家庭」とは実にグロテスクな字面だ!)。
人間関係と住居はたしかに深い関係にあるが、その関係性のパターンはあまりに悲しい膠着状態にあるように思えてならない。前回紹介したドラマ『恋せぬふたり』(NHK総合)は、Aro/Aceの人物が恋愛関係抜きに「家族(仮)」として共同生活を営む過程を描いた作品であるが、ドラマの中では何度も「異性どうしが恋愛抜きで同居するなんて信じられない」という周囲の反発が描かれる。展開のためとはいえ、やはり息の詰まる思いで観ざるを得ない場面であった(最終的に主人公ふたりはそれぞれの夢のため別居しながら深い人間関係を結んでいく──同居の流動的解体まで描き切ったのはすばらしかった)。
社会学者の草柳千早は『<脱・恋愛>論』(平凡社)において、結婚を選ばなければすなわちひとり、となってしまいがちな現状の選択肢の乏しさに異議を唱え、より自由に他者と生きる道を模索している。人と人とがともに住む。それを介在するものは愛のほか無数にあって然るべきだし、なんならなんのつながりもなくたって構わないのではないか。今回は愛を媒介としない同居を描いた作品について考えてみたい。
山内尚作品が提示する「息のできる場所で生きる道」
最初に紹介したいのは、山内尚『魔女の村』(秋田書店)である。同作はさまざまな困難を抱えた妙齢の女性たちが集まって暮らすアパート、通称「魔女の村」を舞台にした群像劇だ。手洗いがやめられない小学生の主人公・桃は、親の離婚をきっかけに魔女の村に預けられた。魔女の村の主人・麗子は、桃を「あたしたちみたいな子」と呼んで迎え入れる。このとき通されるのがドアのついた個室である点がとても重要だ──「ひとつ屋根の下」で人間同士が他者のまま生きていくには、相応の倫理だけでなく、物理的な壁が絶対的に必要だからである。壁のない家で育った麗子は、それを骨身に染みて知っている。
「ここは魔女の村/門の外で奪われた力を取り戻すための場所」。本作はその一文で締められる。登場人物の多くは、門の外から逃げてきた人たちだ。戸籍変更をしていないトランス女性のともみさん、性被害の記憶から家の外に出られなくなったゆきさん。『魔女の村』は物語の外側に置かれてきた人たちを丁寧に拾い上げ、その暮らしを豊かなものとして映し出す。桃はこの村に住むふしぎなおばさんたちとの交流を通じて、少しずつひとりの人間として自分の意志を尊重しはじめる。
なお、同じく山内尚の『クイーン舶来雑貨店のおやつ』(秋田書店)も、人づき合いの苦手なノンバイナリーの主人公・ジャックが、初対面のトランスの青年・カオルと突然同居することになる展開が描かれる。居場所のなかったふたりは、恋愛抜きの関係で「居心地のよい場所」として小さなお店を作り上げていく。
山内尚の作品は、いずれも居場所を渇望する人に居場所を作ることを命題としているが、その限りなく優しい筆致にこそ、切迫した怒りと危機感が宿っているように思えてならない。クィアとハウジングの問題は非常に厳しい状況にあり、現実にも安心して住める場所のない人が少なくない。物語の中であっても、クィアの居場所はいまだ狭すぎる。ひとりの人間として、息のできる場所で生きる道が、誰に対しても豊かに開かれるべきだ。そうでなければおかしい──山内尚のマンガが静かに語っているのは、そのような世界への異議申し立てである。
ヤマシタトモコが描く「家族」の距離感
朝 わたしは(……)通りすがりの子供に思う程度にもあなたに思い入れることもできない でも/あなたは 15歳の子供は こんな醜悪な場にふさわしくない 少なくともわたしはそれを知っている もっと美しいものを受けるに値する
ヤマシタトモコ『違国日記』
ヤマシタトモコ『違国日記』(祥伝社)は、また異なる形の「同居」ものだ。事故で両親をいっぺんに失い、親戚の間でたらい回しにされかけていた主人公・朝を、母方の叔母・槙生が上のように断言して引き受けるところから物語ははじまる。朝の母親と決定的に相容れず、人づき合いも苦手で、「あなたを愛せるかどうかはわからない」とはっきり本人に告げてしまう槙生は、朝を倫理的に庇護すべき対象として扱いながら、徹底的にひとりの他者として認める。この関係性のバランスが実に好ましい。朝と槙生は「家族」の癒着からほど遠い関係性、まさにそれぞれが「違う国」の住人でありながら、それでもその距離でうまくやっていけるのだ。
ヤマシタトモコがすさまじいのは、ともすれば説教くさくなりがちな現実的な他者との関係性と倫理の物語を、しっかりエンターテインメントとして魅せてくるところである。それぞれに変化し、成長し、失敗し、葛藤する朝や槙生たちの姿を通して、読者もまた自らの経験を思い出し、なにかが変わる予感を受け取るだろう。
他者関係とは絶えず揺らぎながら届くメッセージの連なりだ。その渦中にいるとき、どうして愛だけが特別だと言えるだろうか?
【関連】「結婚、恋愛、子育ての三位一体はハードルが高い」家族のかたちをカスタマイズして生きるための4つのヒント
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