街のゴミ箱は本当に無駄だったのか?若者の路上飲み報道に感じた「ゴミ箱が少な過ぎる問題」(トリプルファイヤー吉田靖直)
バンド「トリプルファイヤー」で作詞とボーカルを務め、『タモリ倶楽部』やテレビドラマへの出演、自伝的エッセイ『持ってこなかった男』(双葉社)の執筆など、音楽活動に留まらず幅広い分野で活躍中の吉田靖直。
彼は、コロナ禍による自粛生活が長引くに連れて報道されることが多くなった若者の路上飲みのニュースにつけ加えられがちなゴミのポイ捨て問題について、違和感があるという。その理由とは──。
路上飲み報道+「ポイ捨て」の罠
最近、路上飲みについてのニュースをよく目にする。コロナ禍でみんなが自粛をがんばっている時期にもかかわらず、集団で路上飲みをする若者たち。それに伴うゴミのポイ捨て問題。道端に放置された空き缶や食べ殼の写真。多少の違いはあれど、どのニュースもだいたい同じような内容だ。コメント欄には、「こういう非常識な輩のせいで規制が強化されていく」「自分のゴミくらい自分で持ち帰れ」といった意見が並ぶ。ごもっともである。
いくら屋外であろうと、至近距離で人と飲み食いしながら話す行為が感染リスクを高めないわけはない。ただ、最初に路上飲みが報じられたあたりでは、世間がその善悪を判断し切れていない雰囲気も私は感じた。去年から「3密」の概念を何百回と聞かされてきたせいか、屋内の密閉された空間でなければ別に感染のリスクは低いんじゃ……という考えが一瞬頭をよぎった人は多いと思う。だが、記事の最後の方で触れられているポイ捨て問題、ゴミの写真などを見て「こいつらはダメだ」とはっきり感じられる。ポイ捨てはモラル的にアウトだ。
ゴミを路上に放置していく奴は実際にたくさんいるのだろう。ただ私には、そういったニュース記事があえて「ポイ捨て」というわかりやすい悪をピックアップすることによって、「若者が集団で路上飲み」と聞いたときに感じる中途半端な不快感により明確な道筋を作ろうとしているようにも見えた。
集団で酔っ払っている若者はうっとうしい
渋谷のハロウィンの報じられ方にも同じことを感じる。毎年、ハロウィン翌日には路上に大量に投棄されたゴミがメディアでこぞって取り上げられる。しかしそもそも、仮にポイ捨ての問題がなかったとしても多くの人はハロウィンで騒いでいる若者自体を不快に感じていたのではないだろうか。
コロナ禍であろうとなかろうと、仮に全員が責任持ってゴミを持ち帰っていようと、若者が集団で酔っ払ってハイテンションになっている様はそれだけでうっとうしい。「集団で酔っ払っている若者が不快な街ランキング」があったなら確実に全国ベスト10に入るであろう高田馬場に私が長年住んでいるせいで、なおさらそう思う。最近は減ったが、以前は毎週末駅前ロータリーで大学生が肩を組んで大学の校歌を歌ったり、あちこちに嘔吐物が落ちていたりした。集団心理で強気になっている感じや、若さゆえの全能感が酒で増幅されているのが鼻につく。
そいつらが「ポイ捨て」という明確な過ちを犯してくれれば批判する大義名分はできる。ただ一方、「ポイ捨て」を強調して批判の対象をわかりやすくされているような報じられ方にも、それはそれで違和感がある。
街のゴミ箱は本当に無駄だったのか
そもそも日本には公共のゴミ箱が少な過ぎる、と私はかねがね感じている。ポイ捨てをしている者も、その多くは若干の罪悪感を持ってはいるはずだ。持って帰るのは面倒だができればゴミ箱に捨てたい、くらいにはたぶん思っている。
もちろん、ゴミ箱が少ないことはポイ捨てを正当化する理由にはならない。しかしポイ捨てをする個人を批判するばかりではなく、もっと構造的な問題にも目を向けていいのではなかろうか。
海外から日本に来た人の多くが、街に設置されたゴミ箱の少なさに驚くらしい。私が子供のころと比べても、ゴミ箱の数はかなり減った。以前は公園に行けばでかい金網のゴミ箱がひとつはあったものだが、最近は見かけない。店前にゴミ箱を置いているコンビニも少なくなった。
なぜゴミ箱が減ったのか。調べたところでは、1995年の地下鉄サリン事件以降、不審物を隠すことができる場所になるとして、次々とゴミ箱が撤去されたらしい。また、2001年のアメリカ同時多発テロのあとにも「テロ対策」という名目でゴミ箱が減らされた。
しかしゴミ箱がなかったとしても、その気になれば不審物を隠せる場所など街中にいくらでもある。テロリストが「ゴミ箱がないから」という理由でテロをやめることは基本的にないだろう。
実際のところゴミ箱が減った大きな要因は、行政や企業がテロ対策をきっかけにゴミ箱を撤去することでゴミ処理にかかる手間やコストを削減できると気づいたからだという。減らすのは簡単だが、一度減らされたものが元に戻ることは難しい。コストを削減したあとでは、またコストをかけて何かを行うことは無駄に思える。しかしゴミ箱は本当に無駄だったのか。
ゴミが出ることを前提とした商品をそのへんで売っているのだから、ゴミ箱もそのへんに置いてくれてもいいのではないか、いや、置いてくれるべきなのではないか、と正直思う。コンビニで買った商品のゴミをレジ横に小さく設置されたゴミ箱に捨てに行くとき、何かこそこそ悪いことをしているような気分になる。そのあとで、いや、別に堂々としてりゃいいだろ、と思い直すが、そういう心理的障壁を見越してコンビニ側はあんなわかりにくいところにゴミ箱を設置しているのだろうか。一応ゴミ箱を置いてくれているだけでも、今のお店の中では優しいほうかもしれないが。
不寛容で息苦しい社会を作っている一因に?
生きていれば必ずゴミは出る。ゴミは少ないほうが望ましいが、どうやっても出るゴミにすら罪悪感を感じさせる世の中は息苦しい。ゴミ箱の少なさが、他人に迷惑をかけられることを絶対に許さない不寛容で息苦しい社会を作っている一因ではないかと、私は近年わりと強く思っている。
しかし、じゃあゴミの処理は誰がするんだ、ゴミの処理もタダじゃないんだよ、などと言われたら、それは行政か何かが社会福祉としてやってください、と丸投げできるほどの信念も私にはない。
だからひとりでモヤモヤしているだけだったのだが、この前イベントでフリーマーケットに参加したとき、ゴミ箱を街に設置するベンチャー事業を立ち上げたという若者に出会った。彼は私が抱いていたゴミ箱に対するモヤモヤを隅々まで理解してくれたし、私が傍観してすまそうとしていた問題を自分の手で変えようとしていて感動した。彼の話では、ゴミ箱に広告欄を設け、スポンサー料で清掃員を雇うなどの費用を賄う計画らしい。それがうまくいくのかどうかは私にはわからないが、ただの金儲けの手段ではない、社会的に意義のある事業だと思った。心から応援したい。
今は高田馬場駅前からもうるさい大学生が減り、数年前に比べてかなり静かになった。あれだけうっとうしかった学生の集団も、モラトリアムを許容されている年頃に自粛を強いられていることを考えるとちょっとかわいそうではある。
人混みと喧騒であふれ返る駅前ロータリーに文句をつけながら通り過ぎていた、あのころの日常も最近は懐かしく感じるようになってきた。
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