街のゴミ箱は本当に無駄だったのか
そもそも日本には公共のゴミ箱が少な過ぎる、と私はかねがね感じている。ポイ捨てをしている者も、その多くは若干の罪悪感を持ってはいるはずだ。持って帰るのは面倒だができればゴミ箱に捨てたい、くらいにはたぶん思っている。
もちろん、ゴミ箱が少ないことはポイ捨てを正当化する理由にはならない。しかしポイ捨てをする個人を批判するばかりではなく、もっと構造的な問題にも目を向けていいのではなかろうか。
海外から日本に来た人の多くが、街に設置されたゴミ箱の少なさに驚くらしい。私が子供のころと比べても、ゴミ箱の数はかなり減った。以前は公園に行けばでかい金網のゴミ箱がひとつはあったものだが、最近は見かけない。店前にゴミ箱を置いているコンビニも少なくなった。
なぜゴミ箱が減ったのか。調べたところでは、1995年の地下鉄サリン事件以降、不審物を隠すことができる場所になるとして、次々とゴミ箱が撤去されたらしい。また、2001年のアメリカ同時多発テロのあとにも「テロ対策」という名目でゴミ箱が減らされた。
しかしゴミ箱がなかったとしても、その気になれば不審物を隠せる場所など街中にいくらでもある。テロリストが「ゴミ箱がないから」という理由でテロをやめることは基本的にないだろう。
実際のところゴミ箱が減った大きな要因は、行政や企業がテロ対策をきっかけにゴミ箱を撤去することでゴミ処理にかかる手間やコストを削減できると気づいたからだという。減らすのは簡単だが、一度減らされたものが元に戻ることは難しい。コストを削減したあとでは、またコストをかけて何かを行うことは無駄に思える。しかしゴミ箱は本当に無駄だったのか。
ゴミが出ることを前提とした商品をそのへんで売っているのだから、ゴミ箱もそのへんに置いてくれてもいいのではないか、いや、置いてくれるべきなのではないか、と正直思う。コンビニで買った商品のゴミをレジ横に小さく設置されたゴミ箱に捨てに行くとき、何かこそこそ悪いことをしているような気分になる。そのあとで、いや、別に堂々としてりゃいいだろ、と思い直すが、そういう心理的障壁を見越してコンビニ側はあんなわかりにくいところにゴミ箱を設置しているのだろうか。一応ゴミ箱を置いてくれているだけでも、今のお店の中では優しいほうかもしれないが。
不寛容で息苦しい社会を作っている一因に?
生きていれば必ずゴミは出る。ゴミは少ないほうが望ましいが、どうやっても出るゴミにすら罪悪感を感じさせる世の中は息苦しい。ゴミ箱の少なさが、他人に迷惑をかけられることを絶対に許さない不寛容で息苦しい社会を作っている一因ではないかと、私は近年わりと強く思っている。
しかし、じゃあゴミの処理は誰がするんだ、ゴミの処理もタダじゃないんだよ、などと言われたら、それは行政か何かが社会福祉としてやってください、と丸投げできるほどの信念も私にはない。
だからひとりでモヤモヤしているだけだったのだが、この前イベントでフリーマーケットに参加したとき、ゴミ箱を街に設置するベンチャー事業を立ち上げたという若者に出会った。彼は私が抱いていたゴミ箱に対するモヤモヤを隅々まで理解してくれたし、私が傍観してすまそうとしていた問題を自分の手で変えようとしていて感動した。彼の話では、ゴミ箱に広告欄を設け、スポンサー料で清掃員を雇うなどの費用を賄う計画らしい。それがうまくいくのかどうかは私にはわからないが、ただの金儲けの手段ではない、社会的に意義のある事業だと思った。心から応援したい。
今は高田馬場駅前からもうるさい大学生が減り、数年前に比べてかなり静かになった。あれだけうっとうしかった学生の集団も、モラトリアムを許容されている年頃に自粛を強いられていることを考えるとちょっとかわいそうではある。
人混みと喧騒であふれ返る駅前ロータリーに文句をつけながら通り過ぎていた、あのころの日常も最近は懐かしく感じるようになってきた。
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