四千頭身・石橋遼大「つまんない人生」をひっくり返したかった
「こんなに普通の人間っていないですよ」。
インタビュー中、四千頭身の石橋遼大は何度も繰り返した。テストの成績も、スポーツも、何もかもが平均点だった少年は、なぜお笑いという茨の道を志したのか。そこには、高校時代に味わった挫折と、5歳のころから熱中した『M-1グランプリ』への憧れがあった。
飄々としているように見えて、隠し持ったハートは熱い。多くの先輩芸人から「何を考えているかわからない」と評されることも多い石橋が、これまでの歩みとお笑いへの情熱を静かに語るインタビュー前編。
レギュラーの仲間と雲泥の差だった高校時代
──バラエティ番組での石橋さんを観ていると、いわゆる芸人さんっぽさがないというか……。キャラクターも感覚も、一般人の私たちに近いんじゃないかと勝手に思ってしまいます。
本当に、普通の人間ですよ。ずーっと普通でした、今もですけど。
──本当にそうなんですか?
僕なんか本当に、何もない人間ですから。昔っから、ずっと普通だったんです。テストの順位も、偏差値も、ずっと平均点。本当にど真ん中。身長も171センチ、体重も60キロで、めちゃくちゃ平均的な人間です(笑)。こんな普通のやつを、よくここまで連れてきてくれたなって思います、都築と後藤には。
──お笑いの世界って、ある意味「普通」と対極の世界だと思いますが、どうして挑戦しようと思ったんでしょうか。
もともとお笑いが好きだったのはもちろんなんですけど、高校生のときに「こんなにつまんない人生ないぞ」って思ったんですよね。サッカーのスポーツ推薦で高校に入ったんですけど、全国大会の試合に出たわけではなくて、ずっと一番下のチームにいました。唯一、自信があったサッカーもそこで自信を挫かれてしまって。
レギュラーの選手が大きい舞台で活躍しているのを、僕はスタンドで応援していて。こんな雲泥の差ってなかなかないですよ。それで「こいつらに何かひとつでも勝つには、違うことで一発逆転しなきゃ」って思ったんですよね。それで選んだのがお笑いでした。
『M-1』の漫才師たちに憧れて
──不安はありませんでしたか?
「ここまでなんもない人生だったから、あとは上がるだけだろう」っていう根拠のない自信があったんですよね(笑)。これ以上は下がらないからやっていけるはずだ、っていう変な自信だけで。
──実際に養成所に入るまでは、人前でお笑いをやったりは?
学園祭とかで、まわりの友達から「なんかやれよ」って言われたら前に出てましたけど……全然、率先してやるとかではなかったです。でも、『M-1』は2001年くらいからずっと好きでずっと観てましたし、まわりからは「お笑い好きなヤツ」だとは思われてました。
──2001年って、かなり早いですよね。
5歳くらいですかね。2003年の、フットボールアワーさんが優勝したときは、家族での外食を抜け出して家帰ってきて、ひとりで観てました。
──「こんな芸人さんになりたい」という理想像はありましたか?
僕、もともとツッコミ志望だったんです。もちろんボケの人もおもしろいなと思ってたんですけど、漫才だったらボケでひとつ笑いが起きて、ツッコミでさらに笑いが増幅していく感じが好きだったんで。だから今もツッコミの人たちを尊敬しているというか、憧れはあります。
本当に、賞レースで活躍されてるツッコミの方がみんな好きだったんですよ。今でも言ってるのは、銀シャリの橋本(直)さんとか、学天即の奥田(修二)さんとか……。しゃべくり漫才やってる人たちの、共感を誘うツッコミがすごく好きで、学生時代はずっと観てましたね。
ネタ中の「狙った真顔」を研究した
──養成所では、後藤さんと都築さんと同じクラスだったんですよね。
そうですね、本当にたまたまなんですけど。後藤くんは入学して最初の自己紹介のときから目立ってて、人を巻き込む力がすごかったです。人気も凄まじかったですし。後藤くんと組んだときに「これはいけるだろうな」って思いました。
──石橋さんも、最初はツッコミだったんですか?
そうです。でも、全然ヘタクソで。いろんな先輩芸人への憧れが強過ぎたせいか、めちゃくちゃへたっぴでした。四千頭身を組んでからは、ずっとボケですね。ボケだったら「できないこと」もプラスにできるというか。「全然うまくできない」っていう笑いもあるんで、だったらそっちに振り切ってがんばってみようかなって。
──結成当初から今の石橋さんのようなキャラクターだったんですか?
それこそずっと『M-1』とかで漫才を観てきたんで、組んで最初のうちは「明るくしよう」ってがんばってたんです。当時のライブの映像を観ると3人共元気があって、一番変わってなさそうな僕が一番変わってます(笑)。
でも、やっていうちに「変に動いてもふたりの邪魔をするだけだな」ってことに気づいて、そこから自分の立ち位置を見つけていきました。ほかの漫才師のボケの人の、しゃべってないときの表情とかを研究して。
邪魔はしてないけどちょっと変な雰囲気というか、狙ってるけど狙ってないみたいな真顔を貫くように……とか。
──積極的にボケて笑いを取りにいきたい、とはならなかったんですね。
もう都築はひと目でボケだってわかりますし、あいつは根が明るいんで。だったら僕はそうじゃないところを目指そうと思ったんです。ずっとしゃべってなくても一発のボケで笑いが取れるっておいしいじゃないですか。目立たないぶん、そこでちゃんと笑いを起こさないといけないんですけど。
──その一発のボケのために雰囲気を作っておくんですね。
ネタによっては、本当に話を聞いてないみたいなパターンもあるんで。ただ、そういうときの一発はめちゃくちゃ緊張します。「これでウケなかったらどうしよう」って(笑)。
──早い段階からトリオとしての手応えはあったんですか?
そうですね、養成所のころはずっとライブで優勝させてもらって。このまま売れるのかな……と思ってたんですけど、同期の丸山礼が卒業してからいきなりテレビに出始めて、ほかにも同期が1年目から『おもしろ荘』(日本テレビ)とか『にちようチャップリン』(テレビ東京)に出てて。「あれ、俺らって意外と難しいのかな?」と思ったりもしました。
でも事務所ライブではずっと勝ててたんで、ネタをがんばるしかない、って感じで。そのうちフジテレビの『新しい波24』のディレクターさんに拾ってもらって、そこがターニングポイントになりましたね。
──とにかくネタがおもしろければいけるだろう、と。
そうですね、そのときはほかにトリオの漫才師もいなかったんで。我が家さん以来というか、物珍しさもあったし、どこかで拾ってもらえるんじゃないかとは思ってました。まわりがどんどんテレビに出ていっても、僕らは正当にネタで評価されたいっていう気持ちはあったんで。