岩洞湖の強風と忍び寄る地獄の足音
7時間を超えるドライブを経て、僕たちは夜明けの岩洞湖に辿り着いた。
レストハウスの駐車場に車を停め、むくみ切った足を東北の大地に放り出そうとしたそのときだった。
開いたドアが凄まじい圧力で押し返され、バコン!と大きな音を立てて閉じたのだ。それは、アラスカでは灰色熊より危険とされる発情期のヌーが突進してきたのかと思うほどの、あまりにも強い風だった。
車内に押し戻された僕は、ふたりと顔を見合わせた。
「風がヤバいかも」と呟くと、ふたりはウヒヒ、と引きつったように笑った。
どうにか車外に飛び出た僕たちは、レストハウスに駆け込んだ。夜が明けたばかりだからか建物にはまったくと言っていいほどひと気がない。餌の収められた冷蔵庫なんかを眺めていると、奥から店主が出てきた。まるで僕たちの出現がまったく予想外だったかのように目をパチクリさせている。そして店主はこう言った。
「どうしましたか?」
今度はこちらがパチクリする番である。
“氷上ワカサギ釣りの聖地”である岩洞湖に、はるばる東京から車で7時間かけてやってきたのだ。まさかここでイーゼル突き立て素描に勤しむわけはない。ワカサギを釣るに決まっているではないか。その旨を説明すると、店主は大変渋い顔をして言った。
「強風警報が出ています」
薄々勘づいてはいた。この近辺に吹き荒れる尋常ならざる風に。そして彼はつづけた。
「今日はきっとあなたたち以外のお客さんは来ませんよ」
ひと気がなかった理由はそれだった。
誰も氷上釣りになど出ようと思わないほどの風が吹いているのだ。地元のお客さんでさえ怖気づく風だ、我々も引かざるを得ないだろう。宿のチェックインはまだ当分できないから、どこか屋内の観光地でも探すか……。そう思ったとき、T君が頑なに守っていた沈黙を破ってぼそりと言った。
「かと言って、今日は営業をやめるというわけではないんですよね?」
この男、食らいつこうとしている。
その鬼気迫る表情に、店主は明確にたじろいだ。そしてこう言った。
「もちろん営業しています」
僕たちはテントをひとつと3人分の釣り竿と餌のセット、そして氷に穴を開けるドリルを借りた。店主が地図を指してポイントの説明をしてくれる。
「我々は今、湖の南側のレストハウスにいます。ここから湖の上を歩いて、北側から突き出ている半島の影まで行けば、風は避けられるはずです」
そんなに大きな湖ではないから、スムーズに歩けば30分ほどで辿り着くはずだという。
僕たちはいったん車に戻り、東京から持って来たそれぞれの防寒具を身につけた。
僕は高校生のころから愛用していた工事現場用のドカジャンに冬用ニッカポッカ。足元は新たに某作業着専門店で購入した3000円の防寒ブーツ。幹事長は日本を代表する某衣料品メーカーのウルトラ●イトダウンジャケット(水色)にデニムパンツ(水色)。靴にはクレイジーなほどカラフルなニューバランスのランニングシューズを選択。幹事長は三度の飯より狂った色のスニーカーが好きなのだ。ぜひ政治家になってほしいものだ。
問題はT君だった。
東京の冬とほとんど変わらない服装のT君が、意気揚々と氷上に繰り出そうとしているのである。3月の岩手は寒い。その上この岩洞湖は“本州で最も寒さの厳しい場所”としても知られており、そこへきてこの強風である。よくこの装備で「営業はするんですよね?」なんて吠えられたものだ。
しかしもう行くしかない———。
僕たちは意を決し、白く輝く巨大な氷の上に足を踏み出した。
最初の10分は順調だった。時折吹く強い風に煽られながらも、凶暴なほど透き通った空気を胸いっぱいに吸い込んで、一歩一歩対岸めがけて進んでいく。大きな自然を全身で感じる。かすかな恐怖が心地よい。
しかし僕たちが湖の中心に近づくほどに、地獄はその口をゆっくりと開いていったのである。
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