|
|
なるべくゆっくり走ってくれ
トイレは壁も床も真っ白のタイルが敷き詰められていて、塗りたくられたニスの艶も相まってとてつもない眩しさを放っている。そういえばこの空港、あるいは映画館なのだろうか、そんなことはもうすでにどうでもよくなっていたのだが、ここには白という色がまったくなかった。唯一このトイレで今日初めての白を目撃したことになる。
時に光は闇よりも盲目とはよく言ったもので、突如網膜を殴りつける眩しさに前が見えているのかどうかもわからず足元もおぼつかない。
なんとか用を足していると、その間ずっと手洗い場のほうから知らない男の視線を感じる。
いや、正確には感じるような気がする。ここで私が彼のほうに目を向けたら、これがもしフィクションの世界であれば何かしらのイベントにエンカウントすることを確信した。そんな面倒はまっぴら御免で、是が非でも目を伏せつづけることにしたのだが、男の手の甲にある大きなイボのカタチだけが今だにはっきりと脳裏に焼きついて離れない。
(skit : タクシーを止めるときに手を挙げるという意思表示の仕方は、ほとんどの人間に共通して無意識の動作だろう。SNSにおける“いいね”のような、意思表示が形式的なものに簡略化される現代では人々が日常生活で身体を使って意思表示をする場面として、実はこの行為はメジャーなものかもしれない。タクシーのフロントについている“空車”の電光表示がある日突然“宗教”とか“政治”などの他のものに置き換わり、タクシーに対して身体的に手を挙げる意味が変わってくるファンタジーについて考えてみよう。意思表示をすることが自然に求められる世界に迷い込む話だ)
劇場の中に入って席に着くとこれがまたなんとも心地よい。上映されているストーリーがなんであるかなどどうでもよくなってしまうのだ。なぜか劇中音楽だけは異様に加工されていて、1秒間の音が4秒分くらいに引き伸ばされている。PINK FLOYDのモノマネをするインディーズバンドがリアルタイムに伴奏をしていた。
「思考がふわふわとしてきたから今回の旅行は諦めようかな。その矢先に父から連絡があり旅行は中止、とのこと。もはやありがたいもんだ。席を立って通路の人々の長い脚をかき分け出口に向かう。申し訳ない。劇場を出た俺はすぐに停車中のタクシーを拾って帰路についた。畦道はやたらと揺れる。なるべくゆっくり走ってくれ」
「なぜ劇場の外に田園風景が広がっていたのか、誰にもわからないだろう」
(this story inspired by yesterday’s Dream.)
|
|