「わかりあえない」から希望が生まれる(永井玲衣)|得体の知れないD vol.03

2020.4.11

文=永井玲衣


2021年の3月、震災(Disaster)から10年(Decade)という節目にさまざまな「D」をテーマとしたイベント「D2021」が開催される。

連載「得体の知れないD」では、執筆者それぞれが「D」をきっかけとして自身の記憶や所感を紐解き、その可能性を掘り下げていく。

第3回の書き手は、哲学研究者の永井玲衣。対話(Dialogue)、議論(Discussion)、ディベート(Debate)、同じようで異なる3つの「D」を取り上げ、「D」の持つ可能性、そこから生まれる希望を探る。

他者とは無限につづく他者の連鎖である

ひとの家に行くと、欲求とはこうも人それぞれなのか、と驚かされることが多々ある。 

なぜこんなものが欲しいのか、なぜこれをここに飾ったのか、理解できないものを目の当たりにする。人には固有の理由があり、わたしとは異なる欲求がある。 

自分の家でもそれは例外ではない。 

以前実家に、イタリア帰りの父からお土産をもらいに行ったことがあった。グルメの本場であるイタリアらしいお土産を期待した私に、父は手のひらサイズの黒光りする楕円形の石を目の前に置き「石の卵なんだ」と言った。 

わたしが黙っていると、彼はもうひとつ色違いの石を目の前に置き「これは僕の分」と言った。  欲求とは人それぞれで、他者とは無限につづく他者の連鎖である。

対話、議論、ディベート、3つの「D」  

ここ数年、対話の場をひらく活動をしている。 

対話では、他者とともにじっくり考え、ゆっくり聞き合う。これは、学校でも、街の喫茶店でも、企業でも、美術館でも、路上でも、どこでもできる。 

対話と聞くと「ぬるい」と反応する人がいる。闘いをあきらめたひとびとの、互いをやさしく甘やかすためのコミュニケーションの場だと思われる。そんな簡単なことをなぜわざわざ、と言う人もいる。 

だが、対話は本当にむずかしい。これは断言できる。 

対話といってもいろいろあるだろう。わたしは、哲学的なテーマについて他者とじっくり考える「哲学対話」と呼ばれる活動をしている。哲学対話だけでも、世界中で、国内で、いろいろな共同体で行われていて、さまざまなやり方があるし、考え方がある。だからここでは、その内容について比べたり、詳しく説明をしたりはしない。 

対話(Dialogue)。議論とは違う。議論(Discussion)もDだ。でも、別のものなのだ。ディベート(Debate)とも違う。これもDだけど。 

ボームの『ダイアローグ』

昔、D・ボームというえらい人がいた(彼もD!)。彼は著名な物理学者でありながら『ダイアローグ』という本を書いていて、これがおもしろい。彼によれば、議論(Discussion)では、人々は考えをあちらこちらに打っている、という。このゲームの目的は「勝つか、自分のために点を得ること」である。

デヴィッド・ボーム『ダイアローグ』

それに対し、対話で求められることは「対話しているときの思考と、身体が表す喜怒哀楽、そして情動との関連性に気づくこと」であり、自分の前提や、誰かに何かを言われたときの反応などが「どんなものかを、ただ見るだけ」である。変なの。 

わたしは議論の悪口を言いたいわけじゃない。議論は大事だ。でも、人と集まって「議論」をすると、わたしたちは「べき」とよく言う。感情を排さないといけないと思い込む。よいことをするべきだ、よい人生を送るべきだ、よいものが必要だ。

だが、本当は、驚くほどにわたしたちの前提は異なっている。欲求が違っている。理由が食い違っている。わたしの欲求はわたしだけのもので、わたしの思考の積み重ねがわたしの前提を形作る。わたしはわたしの人生のための理由を背負っている。 

だから、そのことを思い出すためだけでも、「対話」が必要だ。自分の考えをぶつけるゲームというよりも、相手が何を言いたいのか聞こうとすること、相手がどんな前提に立っているのかを探ろうとすること、これが対話である。対話では、徹底的に「きく」ことに集中しなければならない。たとえ、相手を愛していなくても。 

だからこそ、対話はおそろしく、神経を尖らせる場でありつづける。 

他者を受け入れることは、自分を受け入れること


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