【音楽のなる場所(磯部 涼)】文化はひとを救い、時に殺す──映画『ルックバック』評

【音楽のなる場所(磯部 涼)】文化はひとを救い、時に殺す──映画『ルックバック』評

文=磯部 涼


小学3年生の娘と酷暑の夏休み、隣駅の映画館で『ルックバック』を観た。冷房が効いた暗闇の中、ビールを啜る父の隣で、キャラメル・ポップコーンを淡々と口に放り込み続けている娘は、あるシーンで突然目を覆った。

※本稿には、映画『ルックバック』の結末や原作との変更点などのネタバレが含まれます。未見の方はご注意ください。

『ルックバック』あるシーンで目を覆った娘

夏休み、小学校3年生の娘は放っておくと延々『スプラトゥーン3』をやっていて、少しは外に連れ出そうと思うがこの暑さだし、結局はいつも隣駅の映画館に向かうことになるのだった。彼女が選んだ『劇場版すとぷり はじまりの物語 ~Strawberry School Festival!!!~』に続いて、こちらが推薦したのは『ルックバック』。冷房が効いた暗闇の中、若者で埋まった客席の方々から微かな泣き声が聞こえてくる。ビールを啜る父の隣で、キャラメル・ポップコーンを淡々と口に放り込み続けている娘が何を感じているのか分からなかったが、彼女はあるシーンで、突然、目を覆った。スクリーンではそれまでの日常描写を断ち切るように、男がこちらに向かってツルハシを振りかざしていた。

『ルックバック』

新しい名作『ルックバック』について今更詳細に解説する必要もないだろう。最低限で済ませておけば、作者は藤本タツキ。原作は2021年7月19日、彼の出世作である『チェンソーマン』のシーズン1が終わった後に、読み切り作品として公開された。物語は言わば藤本版『まんが道』で、クラスで人気者の藤野と不登校児の京本という正反対の性格の同級生が、学校新聞の四コママンガ欄への寄稿をきっかけに互いの才能を意識し合い、やがて藤野キョウとして合作するようになる。

劇場アニメ「ルックバック」本予告

押山清高監督による映画版への賞賛として多く聞かれたのは、まずは原作に忠実だということだ。実際、143ページで展開する物語をほぼそのままなぞっているため、上映時間は58分と短い。映像に関しては、自分もご多分に洩れず「あの絵が、そのまま動いている!」と感動したわけだが、もちろん、そこにはマンガとアニメーションという表現方法の間にある大きな隔たりをあたかもなかったものにしてしまうような高度な技術があるだろう。

もしくは紙の上で鉛筆が動き、線が描かれそれが連なり絵になっていくという一連の動きの描写はマンガよりもアニメーションに適しているわけで、それが「そのまま動いている!」と感じるのは、私たちが原作を読んでいる時の想像力に、映像化にあたって誠実に寄り添っているのだとも言える。しかし、そのような高度な技術と誠実さがあるからこそ、映画版は原作のある種の歪さが補完され、優れたメロドラマになっているとも感じた。例えば前述した男の登場シーン。

プロのマンガ家を目指し上京する藤野と袂を分かち、京本は美術大学へ進む。ある日、彼女がアトリエの外のソファで休んでいると、そこに男がやってくる。手にはツルハシがある。男は京本と全く面識がなく、唐突に捲し立てる。「ねぇキミさお前っ オマエさあ」「この間の展示っ…俺の絵に似たのっ…あったろ? あ?」「俺のネットにあげてた絵! パクったのがあったろ!?」「なア!!」「なああああああああ」。戸惑う京本に向かって男はツルハシを振りかざし、叫ぶ。「オイ」「見下しっ 見下しやがって!」「俺のアイディアだったのに!」「パクってんじゃねえええええ」(*1)。

『ルックバック』(藤本タツキ/集英社/2021年)
(*1)『ルックバック』(藤本タツキ/集英社/2021年)単行本版より

映画では男の姿がはっきりと描かれる。京本が座るソファのすぐ側に、振り下ろしたツルハシが突き刺さるシーンでは、その鋭角な先端に体重が乗っていて、(如何にも批評用語で気が引ける表現だが)他者性がはっきりと伝わってくる。簡単に言えば生々しく、娘のように目を覆いこそしなかったものの、自分も反射的に身構えてしまった。一方、原作では男は光を浴びているかのように輪郭が曖昧に描かれる。そのシーンは事件をニュースと伝聞から知るしかなかった藤野による現場の想像で、彼女が事実を受け止められないからこその世界線とも捉えられるからだ。そしてその光の中で“男”は、殺される京本やそれを想像する藤野と溶け合った存在として居る。

“男”のモデル=青葉真司被告

先述したように、『ルックバック』が藤本版『まんが道』だということは誰もが思うだろう。ただし藤子不二雄のキャリア初期を、コンビの片割れ=藤子不二雄Ⓐが自身の視点から描いた『まんが道』と違うのは、主人公の名前=“藤”野/京“本”からも分かる通り、『ルックバック』では作者=“藤本”タツキが自身の青春期をふたりのキャラクターに分割しているということだ。

ひとりの人間には、藤野のように自信家の側面もあれば、京本のように引っ込み思案な側面もあり、それらがぶつかり合いながら成長する。同作はそのような普遍的な葛藤を友情物語の形式を通して表現しているとも言える。あるいはそこで分割されたキャラクターはふたりに限らないのかもしれない。例えば前述の男だ。

“男”のモデルが青葉真司被告であることもまた説明するまでもない(*2)。原作の初公開日は、被告が日本を代表するアニメーション制作会社=京都アニメーションの第1スタジオ入口にガソリンを撒いて放火。実に36人が死亡、32人が重軽傷を追った事件の3回忌、その翌日にあたる。作中の男は京本に対して自分の作品を「パクった」と口にしていたが、被告も自作の小説が京アニに盗用されているという妄想を拗らせ、それが彼を犯行へ向かわせた。

だからこそ、藤野と京本という主人公だけでなく、前述の男もまた作品のテーマを担うキャラクターだという解釈に拒否感を持つひとがいても仕方がない。何しろモデルは日本犯罪史上最悪とも言われる放火事件の容疑者であり、作中でも多くのひとが感情移入するはずの京本を理不尽に殺害するのだ。一方で2023年9月から始まった裁判で明らかになったのは、青葉被告の以下のような過酷な半生だ。

青葉真司被告は1978年、埼玉県生まれ。少年時代、夫からのDVを原因として母が家を出ると、酒癖の悪い父の暴力は残された3兄妹へと向かう。青葉被告は冬に裸で水をかけられ、睡眠を制限され、中学の柔道部時代に大会で準優勝した際にもらった盾を理由もなく燃やすよう命じられたこともあった。また末の妹は性的虐待を受けていたとされる。

やがて父は体調を崩して職を失い、家族は引っ越さざるを得なくなる。青葉被告は新しい中学校に馴染めず不登校になるが、家計を支えるために新聞配達で働く。その後、フリースクールから進学した定時制高校を皆勤で卒業するものの、次の専門学校を3ヶ月で辞め、続いて父を亡くし、コンビニのアルバイトを転々とする中で自身も心を病み、社会生活がままならなくなっていった。生活保護を申請したが断られ、スーパーの配送車から商品を盗むなどして食い繋いだ時期もある。

2008年6月に秋葉原で発生、非正規雇用が社会問題化するきっかけとなった加藤智大元死刑囚(2022年、刑執行)による無差別殺傷事件に、青葉被告が言うところの“底辺の人間”として共感。自身も8月には下着泥棒で、2012年6月にはコンビニ強盗で逮捕。後者による懲役3年6ヶ月の実刑と更生保護施設での生活を経て、かねてよりの小説執筆への情熱に現状打破の夢を見たが、それがまた精神的失調を悪化させ、2019年の放火殺傷事件へと繋がってしまった。

もちろん辛い目にあってきたからあのような事件を起こしても仕方がないのだなどと言いたいわけではない。裁判において弁護側は心神喪失によって無罪、及び減刑を求めたが、2024年1月、死刑が言い渡された。青葉被告は判決を不服として控訴している(*3)。

(*2)作中では事件が起こった日時は2016年1月10日となっており、2007年1月15日に京都・精華大学の生徒が殺害された事件もモデルになっていると思われる。
(*3)青葉被告の裁判記録は『京都新聞』(https://www.kyoto-np.co.jp/subcategory/kyoani_saiban)及び、『共同通信社』(前編:https://nordot.app/1081879356886188496?c=39546741839462401、後編:https://nordot.app/1081885932429050486?c=39546741839462401)のものを参照した。

藤野が直面した“文化の加害性”

しかし藤本タツキの読者ならば、作者がそのような救いようのない、“底辺の人間”こそを描いてきたことも知っているはずだ。デビュー作『ファイアパンチ』で主人公=アグニは、氷河期となった世界で、身体が再生する能力を持つマイノリティであるが故に“薪”として使われ、まさに放火の被害者となる。次作『チェンソーマン』の主人公=デンジは父の借金を肩代わりし、自身の内臓や眼球、性器を売り、悪魔を殺すことで報奨金を得て凌いでいたがやはり殺されることになる。そして前者は自身を焼く炎を纏い、後者は悪魔と契約することで異形の者へと転生。

『ルックバック』の京本も不登校児で引きこもりという社会的マイノリティで、藤野の誘いで自身の画力によって生きていく道を見出せるようになった。しかし『ファイアパンチ』も『チェンソーマン』もその後の展開はいわゆるヒーローものから外れた暴力性を孕んでおり、京本の結末に関してはこれまで書いてきた通りだ。

藤本タツキが『ルックバック』を描いた動機は、同作の後に刊行された、初期作品を纏めた短編集2冊の内のひとつ=『17-21』の後書きに記されている。それによると、彼が京本の進路のモデルにもなった山形県の美術大学に入学したのは東日本大震災のすぐ後で、「このまま絵を描いていていいのだろうか」「絵を描いていても意味がない」「何か少しでも役に立ちたい」と考え、宮城県石巻市の復興支援ボランティアに参加した。

しかし結果として何の役にも立てなかったという無力感だけが残った。「復興支援にはその後もう一度だけ行きましたが、それきりもう行かなくなりました。油彩をやっていたのでお金がかかり、そのために漫画を描くしかなかったからです。17歳(*4)からずっとその無力感のようなものがつきまとっています。また、何か悲しい事件がある度に、自分のやっている事が何の役にも立たない感覚が大きくなっていきました」。『ルックバック』はそのような気持ちを吐き出すために描いたと。

作中でも京本を失った藤野は無力感に苛まれ、筆が止まる。「私のせいだ……」「私があの時……」「漫画描いたせいで……」「京本死んだの あれ? 私のせいじゃん……」「死ぬことなかったのにっ あれっ?」「なんで…?」「なんで描いたんだろ…」「描いても何も役にたたないのに……」(*5)。直後、藤野は京本の部屋で、彼女が自分と別れた後も読者であり続けてくれていたことを知る。

作品のエンディングは、京本の思いを背負い創作を再開した藤野の後ろ姿だ。そこには京アニ事件で亡くなった多くのクリエイターたちへの追悼と、その意志を受け継いでいくという思いも込められていただろう。映画版のコピーもシンプルに「──描き続ける。」とあるように、何があっても出来るのはとにかく目の前の課題に取り組み進んでいくこと、そのメッセージがシンプルで力強いからこそ、同作はこれだけ受け入れられたのだろう。

しかし先述のシーンで藤野が直面したのは“文化の無力”だけではなく、言わば“文化の加害性”ではないだろうか。京本はマンガに出会わなければ救われなかったが、同時に死ぬことはなかった。では、“男”≒青葉真司被告は?

(*4)同文の冒頭には「17歳の時に僕は山形の美術大学に入学しました」とあるが、通常、大学入学は18歳~19歳。
(*5)『ルックバック』(藤本タツキ/集英社/2021年)単行本版より

2度の改変から見えてくること

また藤本タツキの作家性から考えると、原作版から読み取れるものは、映画版のコピー「──描き続ける。」のようなシンプルで力強いメッセージだけでなく、もう少し捻れたものもあるだろう。例えば前述した短編集のもうひとつで、『ルックバック』のプロトタイプ「妹の姉」が収められた『22-26』の後書きに書かれているのは、以下のようなエピソードだ。

藤本はやはり大学時代、貧しい中で飼っていたメダカが死に、「寄生獣みたいに」ゴミ箱に捨てようとしたところ同居人に咎められ、彼女に言われた通り公園に埋めに行った。素手で穴を掘るのに苦労している内、地面に置いたメダカの死体に蟻がたかり始める。「僕はどういう感情なのか、そこで初めてメダカを大切に思う気持ちが芽生えてきて、蟻を払いのけてメダカを食べました」。彼は次の日、胃腸炎になり、同居人から何か変なものを食べたのではないかと問い詰められたが誤魔化す。「僕は人にたくさん怒られてきたので怒られるのが怖いと嘘をついてしまいます」「そして今、飼っていたメダカを食べた罪悪感よりも彼女に嘘をついた事のほうが今でもずっと記憶に残っています。この場で罪の告白をさせて下さい」。

そう終わる文章は、『17-21』の感動的なそれとは違って不可解で、どこか可笑しくもある。もちろん読者ならば、藤本作品で死肉を喰らうことが重要なモチーフになってきたことを知っているはずだ。また、彼はデビュー作『ファイアパンチ』の第1巻・著者コメント欄で「ニューヨークやワシントンなどで弁護士をしています。絶対に被告人を無罪にします」などと適当なことを書いているわけで、『22-26』のエピソードも単なるホラ話なのかもしれないが、だとしたら『17-21』のそれもそうなのかもしれなくて、つまりそう思わせてしまうような、いわゆる共感に収まらない噛み切れなさ、食えなさこそが藤本作品の核にあるはずだ。

『ルックバック』の、前述の男の登場シーンが2度改変されていることについても触れておくべきかもしれない。初公開時、事件についての記事(1)「大学内に飾られている絵画から自分を罵倒する声が聞こえた」、男のセリフ(2)「オマエだろ 馬鹿にしてんのか? あ?」「さっきからウッセーんだよ!! ずっと!!」(3)「元々オレのをパクったんだっただろ!?」「ほらな!! お前じゃんやっぱなあ!?」などについて、幻聴や妄想を伴う統合失調症に対するステレオタイプな差別的表現ではないかという批判の声が挙がる。

それを受けて後日、(1)「『誰でも良かった』と犯人が供述して」(2)「今日自分が死ぬと思ってたか? あ?」「今日死ぬと思ってたか!?」(3)「絵描いて馬鹿じゃねえのかあ!?」「社会の役に立たねえクセしてさああ!?」に改変。ただしその第2版公開当時から、男もまた創作者だったという複雑な設定が、動機不明、理解不能なモンスターになってしまっているのではないかという批判があった。

結局、単行本版、及びそれを踏まえた映画版では、先述した通り(1)「被告は『ネットに公開していた絵をパクられた』と供述しており」(2)「この間の展示っ…俺の絵に似たのっ…あったろ? あ?」「俺のネットにあげてた絵! パクったのがあったろ!?」(3)「俺のアイディアだったのに!」「パクってんじゃねえええええ」と、幻聴の表現は避けつつ妄想の表現を復活させている。

ここからも男のモデルが明らかに青葉真司被告だということが分かる。あるいは第2版のセリフ「絵描いて馬鹿じゃねえのかあ!?」「社会の役に立たねえクセしてさああ!?」は、その前の藤野の独白「なんで描いたんだろ…」「描いても何も役にたたないのに……」を繰り返しているわけで、やはり男が藤野/京本の分身であるという設定は作者の中でぶれていないとも言えるのではないか。

haruka nakamuraの音楽が青葉真司の部屋で鳴っていた世界線

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磯部 涼

(いそべ・りょう)ライター。主に文化と社会の関わりについて執筆。単著に『ルポ 川崎』(サイゾー、17年)、『令和元年のテロリズム』(新潮社、21年)、編著に『踊ってはいけない国、日本――風営法問題と過剰規制される社会』(河出書房新社、12年)、共著に大和田俊之、吉田雅史との『ラップは何を映しているの..

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