監督・俳優のハラスメントと“ナメられる恋愛ドラマ“。変えられるのは作り手だ

2022.3.25
ヒラギノ游ゴ

文=ヒラギノ游ゴ 編集=梅山織愛


映画やドラマの現場では、監督によるハラスメントが横行したり、俳優の言動にミソジニーが指摘されたりと、ジェンダーに関する無理解に基づく問題がたびたび取り沙汰される。

直近で話題となったトピックから、それらの無理解の背後にあるものについて考えていく。


ミソジニーはどこから

2022年3月9日、映画監督・俳優の榊英雄による複数の女性俳優への性加害が報じられた。

それとほぼ同じタイミングで、映画監督のかなた狼が、新作映画の公開を目前に控えるなか、前作の撮影に際して主演の成田凌に行った加害が改めて取り沙汰されている。

少し遡ると、2月19日に松本人志と中居正広がMCを務めるトーク番組『まつもtoなかい ~マッチングな夜~』(フジテレビ)が放送され、山田孝之と菅田将暉の対談が行われた。この対談で話されたことについて、SNS上では数多くの非難の声が上がった。

こうしたトピックからは、改めて本邦の映画・ドラマ界におけるミソジニーの根深さが窺い知れる。これらの土台にあるのはなんなのか。また、どう変えていけるのか。

榊英雄
公開中止となった映画『蜜月』公式サイトより

作り手が恥ずかしいと思っている作品をどう観るか

榊英雄による加害は、自身の監督作への起用の条件として強要されたものもあると報じられている。

かなた狼のしたことについては、撮影に際して実施された“ワークショップ”の中で行われたということが成田凌の口から語られている。

どちらも監督という立場を、権威勾配を利用したもの。”監督が絶対的な権力を持つ”と言われつづけてきた映画業界の風土が、こうした事件の温床になったといえる。

多くの場面での最終意思決定者である監督が権力を持つことは構造上避け難いこととしても、その権力関係がいかに”絶対的”なんて表現が似合うものにならないよう手を尽くすかが権力を持った人間のあるべき振る舞いだ。

そして監督が仮に”絶対的な権力”を持とうとも、ハラスメントはまかり通らない。”ハラスメントできる権力”なんてものはない。

そういった人権の前提認識を無化し、不平等なゲームを強いる。ホモソーシャルのなせる技だ。

また、俳優を精神的に追い込むことで“鬼気迫る演技引き出す”、といった言い回しで、詰(なじ)ったり怒鳴りつけたりというハラスメント以外の何物でもない行いがひとつの方法論として、ありうる手立てのうちのひとつとして扱われてきた。ハラスメントを受けた側でさえもそれを美談として語る。ほかの業界では一発退場になるような行為がまかり通ってきてしまった。

『まつもtoなかい』でのやりとりについては、ひと言ひと言がそれぞれにひどかった。問題の種類が多過ぎてうんざりするほどだけれど、あえてジェンダーに関するものだけを抽出すれば、韓国発の恋愛ドラマの隆盛に対する菅田将暉の私見がこうだ。

「個人的にすごいなって思うのは、ちゃんとラブストーリーをやってるのは偉いなと思いました。30半ばの俳優さんたちが全力でラブストーリーに向き合ってるし。それがいいか悪いかは別として。でも体感としてやっぱりちょっと照れるし、恥ずかしいし、なんかちょっと媚び売ってるではないですけど、こういうの観たいんだろってところにちゃんとナルシストになって向き合わなきゃいけない」

自身がその価値を認めていない物事へ真剣に向き合う相手に対する称賛という形式を通して透けて見えるのは、恋愛ドラマに対する強烈で平凡な蔑視だ。

「いいか悪いかは別として」──この言葉遣いは「30半ばの俳優さんたちが全力でラブストーリーに向き合ってる」ことが“悪い”ことである可能性を想定に入れることなしには出てこない。そんな仮定する必要のない可能性を検討に入れるのはなぜか。

このように、そしてよく知られているとおり、恋愛ドラマはとにかくナメられまくってきた。その背後にミソジニーの透けて見える言説が、日本中の教室で、リビングで、オフィスで、長く広く吹聴されてきた。

ただ、そういった言説が作り手側からこんなにもあけすけに発露されることには改めて深く失望させられる。ほかでもないキャスト自身が”恥ずかしい”と思っている作品を我々は観てきた。

つまらないのは恋愛ドラマだけか

確かに見ちゃいられないような陳腐な恋愛ドラマは枚挙に暇がない。そりゃもうひどいものがたくさんある。で、それって恋愛ドラマに限った話だったか?

評判の悪い漫画原作の実写映画がたくさんあるけれど、あれは演じていて“恥ずかしい”ものじゃなかったんだろうか。

これでもかというほど豪華なキャストを集めて薄ら寒いかけ合いをやらせるコメディを何度観たことか。おおむね『DEATH NOTE』のLみたいなリアリティからかけ離れたサイコパスを描く上滑りしたサスペンスもごまんとある。観ているこっちが恥ずかしくなる時代錯誤なインターネット描写を大まじめにやってのける刑事ドラマも、社会の実情に即していない薄っぺらな“社会派”映画も腐るほどある。

こういった恋愛もの以外の作品をあげつらって“恥ずかしい”と語る出演俳優を、少なくとも筆者は見たことがない。ただ正しくそっとしておかれている。つまらないものにはわざわざ時間をかけない。

ただ、なぜだか“女のカルチャー”は放っておいてくれない。ほかにいくらでもあるつまらないものの中から“それ”を拾い上げるとき、自分の中の何がそうさせているのか。

陳腐な恋愛ドラマに対する悪感情が恋愛ドラマ全体へのヘイトにすり替わっている面もあるだろう。問題のすり替わりは正しく処理するとして、同時にうんざりさせられるような陳腐な描写をなくすことも進めていってしかるべきだ。

たとえば男と女の間に生じる関係性すべてを恋愛として規定する傾向はかねて問題視されている。かくいう菅田将暉主演の『ミステリと言う勿れ』(フジテレビ)がそうだ。風呂光(聖子)という女性キャラクターが主人公に恋愛感情を抱いているように改変されたドラマ版には放送のたびに多くの批難が寄せられる。

一方で、恋愛(ほとんどの場合ヘテロセクシュアルの)に留まらない人間同士の関係性を描く作品も少しずつ見られるようになってきている。

さらにいえば、そもそも恋愛自体がナメられている

恋愛をはじめとした人間同士の相互ケアは、「男らしさ」の枠組みの中で伝統的に軽視・蔑視されてきた。そんなものを題材にしたドラマが正当に扱われるべくもない。問題はあくまで恋愛ドラマにおける陳腐な描写であって、恋愛ドラマそのものではない。ましてや恋愛そのものでもない。

恋愛に真っ向から向き合い悩み苦しみ喜び安らぐのは“男らしくない”と規定され減点対象となる。逆に、冒頭で触れた加害の件のように、自分の中にある問題を他者にぶつけ蹂躙し、自分の意のままに服従させることは“男らしい”。

トキシックマスキュリニティ的発想では、男らしくない人、あるいは男でない人を侵害すればするほど“男が上がる”。

こうして、セルフネグレクトを貫いた者、あるいは自身のケアを他者に押しつけまかなう者ほど“真の男レース”を勝ち上がっていく。

今、誰のターンなのか

不気味でならないのが、菅田将暉に限らず、恋愛ドラマに対するネガティブな印象をあらわにする著名な俳優たちからは、そういった恋愛ドラマにおける陳腐な描写を変えていこうという動きがとんと見えないことだ。

視聴者には見えない部分で行動を起こしているのかもしれない。口を塞がせる構造があるのかもしれない。そういう可能性を想定に入れるとしても、変えていこうという気概すらも漏れ伝わることがない。変革のために自ら動くことなく、黙々と恥の意識を抱えたまま仕事をしているとしたら、こんなに悲しいことはない。

それが自分たちの責任の範疇であるとは、変えられる立場にいるとは露ほども思っていないのか。状況を変えられるとしたら、少なくとも消費者よりは当事者である俳優たちだ。

それは冒頭で触れたような加害が起こった際も同様で、影響力のある売れっ子や大御所の俳優は、我関せずと言わんばかりにリアクションしないのが常だ。毎度それに底知れない不気味さを感じる。BLM運動が取り沙汰されたときに無反応だったラッパー、ビートメイカーたちを思い出す。

この国の大規模作品の俳優部には、自分たちで自分たちの業界をよりよく変えていこうという発想すら湧かないほどに隷属的な風潮が根づいているのか、と思うと底冷えする心地になる。

「どうせ客はもっとベタなものを求めてるから」という責任転嫁がもう通用しないことはドラマ版の風呂光の評価を見れば明らかだ。

恋愛ドラマの描写の問題にしても、業界のハラスメント体質の問題にしても、このままでいいと思っていない消費者たちはすでに意思表示をし、最低限の役目を果たしている。

マスに名の知られていないインディペンデントな俳優や制作者たちも声を上げている。なぜしょっちゅうテレビに出ている、実際に変えるパワーがある人間たちばかりが現状維持を決め込んでいるのか。もうとっくにあんたらのターンじゃないか。

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