中川翔子という文化的特異点

2021.12.2
「クイックジャーナル」ヒラギノ游ゴ

文=ヒラギノ游ゴ 編集=森田真規


“推しの炎上”を描いた小説『推し、燃ゆ』が芥川賞を受賞した2021年現在、アニメやマンガ、アイドルなどのオタクカルチャーについて語ることは、当たり前な、日常の一風景になっている。

だけど10数年前まで「オタク」は明らかに日陰者であり、特に「女性のオタク」は透明化させられてきた。そんな窮状を変えたのが中川翔子という存在だった……と言えるのかもしれない。本稿では、中川翔子が“女性のカルチャーの顕在化”にもたらした功績について考えていく──。


そうだ、「アウト」だった

2021年10月14日放送の『アウト×デラックス』に中川翔子が出演した。独特なこだわりを持つ“アウト”な人たちを招くこの番組で、中川翔子が語ったテーマは「ダメージ男子」。アニメや特撮の男性キャラクターが痛みに悶える姿がたまらないというプレゼン内容、そして熱狂的に語る姿自体がツイッターで反響を呼び、好意的に受け入れられた。

この放送後の反応には隔世の感があった。

こういったテーマがテレビでおおっぴらに語っていいものになり、共感をもって迎えられていることは、けっしてずっと前から当たり前のことじゃない。そして何より、この番組の語彙で表現するなら中川翔子はもともと思いっきり“アウト”な人だったということを再確認したのだった。

いつの間にかすっかり世間が彼女に慣れて、“共感”される存在になったということに可能性を感じ、ある種の感動を覚えた。初めて彼女を目にしたときの衝撃は凄まじかったし、単なる衝撃ではなくこう、冷や冷やするというか、一種の緊張感を伴うものだったから。

『アウト×デラックス』でも話題になった中川翔子がハマっているという『FF7 リメイク』手揉み屋(『中川翔子の「ヲ」』より)

「オタク」が日陰者だったころ

今では「推し」という言葉の流行に象徴されるように、アニメやアイドルをはじめとするオタクカルチャー(の上澄みの部分)が一般化し、大衆に親しまれている。それらのカルチャーのうちなんらかを通っていないほうがかえって周囲と共通の話題を見つけづらく、コミュニケーションが難しい場面もある。実際アニメもアイドルもほとんど通っていない筆者は、その類の難しさを身をもって痛感することが多い。

だが、たった数年前まで「オタク」は明確に日陰者だった。

かつては宮崎勤事件と結びつけられて“犯罪者予備軍”(ものすごい言葉だ)として扱われたりと、何かとアウトサイダー的なイメージを付与されていた。進んで自称するような属性ではなかったというか、教室や職場での世渡りに差し障る側面が今よりずっと大きかった。

もちろん今でもそういったムードが強いコミュニティはけっして少なくないだろうが、割合としては年々着実に世間において“やりやすい”場面が増えてきているように思う。

……という、この「オタク」という言葉遣いに注意したい。

何が言いたいのかというと、多くの場合、「オタク」という言葉を使うときに想定されているのは「男性のオタク」であって、「女性のオタク」の存在は透明化させられがちだということだ。

もっともこれは「オタク」に限らず「サッカー選手」でも「映画監督」でも同じことではあるが、何せ「オタク」≒「男性のオタク」が今よりずっと世間に定着していないころ、「女性のオタク」の生きづらさはその比じゃなかっただろうということ。

「男性のオタク」が戯画化され良くも悪くも認知を大きく拡げるひとつの契機になった『電車男』でも、「女性のオタク」の実態に即してフォーカスした描写はこれといってないと言っていい範疇だ。

※「オタク」という言葉が侮蔑のニュアンスを内包し得ること、定義が揺れていることを踏まえて、本稿は「オタク」という概念が間違いなく存在するもの、恣意的に他者をそうだと規定していいものという前提には基づかず書かれた。
本稿における「オタク」はあくまで便宜上「オタクとはこういった概念だと信じられている大まかな通念」程度のものを指す。定義や存在の是非に介入する言及を排することで尊重の意を示したい。
また、「女オタク」「腐女子」といった言葉にも概ね同様のスタンスを取り、特に「女オタク」に関しては基本的にこの表記を避け「女性のオタク」と表現する(一部例外あり)。

「飛影はそんなこと言わない」に立ちのぼるミソジニー


この記事の画像(全7枚)


関連記事

この記事が掲載されているカテゴリ

ヒラギノ游ゴ

Written by

ヒラギノ游ゴ

ライター/編集者。