批判ってほんとにそんなにいけないこと?
さて、出版界にも残念なことに暗黙の圧力と忖度は存在します。実際、自分もある雑誌に寄稿した文章が某有名作家の逆鱗に触れ、大御所に忖度した出版社の偉い人たちによって雑誌は全面リニューアル、それまで同社でたくさんの仕事をしてきたライターのわたしは長きにわたって干されたという経験があります。権力を有する作家やドル箱の作家、面倒臭い作家の批判はしない、させない。それが出版界の暗黙の圧力と忖度です。や、そればかりか、書評に限っていえば、どんな作品の批判も控えることまで暗黙の了解として要請されています。
中には、かつてわたしが連載を持っていた『TV Bros.』(東京ニュース通信社)のように批判上等の雑誌もありますし、編集者によっては全面的な否定でなければ多少の批判はよしとしてくれる場合もあります。でも、基本「批判はノーサンキュー」なのです。30年くらい前までは、批判は許されていたし、作家と評論家の論争も存在しました。丸谷才一率いる精鋭評論家軍団が集結した『週刊朝日』の書評欄では、掲載された自作への批判的な書評に対し、大江健三郎が大変まっとうな反論を読者欄(!)に投稿し、自分が間違っていることを認めた評者が書評委員を辞めるなんてことがあったくらいで。なのに、今はとにかく「批判はダメ」。でも、批判ってほんとにそんなにいけないことなのかなあ。
というのも、褒められて怒ったり反論したりする作家はあまりいないじゃないですか。つまり、絶賛評というのは、(自分でも書くので、けっして悪いと思っているわけではないのですが)読者を広げる役割は果たしても、小説をめぐる運動に関していえば、そこで終わってしまうわけです。「褒めたー(評者)」「ありがとー(作家)」「おもしろそー(未読の読者)」……終わり。でも、批判的な評は違いますよね。「ひはーん!(評者)」「なーにぃ!?(作家)」「こいつわかってない!(既読の読者)」「自分はそうは読まないなー(同業者)」といったように動きがつづいていくわけです。これって、小説にとって損ですか?
『クラシック「酷評」事典』の罵詈雑言の嵐
というわけで、今回オススメしたいのはニコラス・スロニムスキー編『クラシック「酷評」事典』(上下巻)です。1800年頃から1950年頃までに発表された楽曲に対する酷評ばかりが収録されています。大森望氏と『文学賞メッタ斬り!』なぞというヤクザな仕事をしていて、そこで候補作や選考委員に失礼な物言いをしがちなせいで批判的書評なんてほとんど書かないのに「辛口書評家」と呼ばれがちなわたしでも、胸が痛くなって読み通すことが困難なほどの罵詈雑言の嵐。
試しに下巻の巻末についている「罵倒語索引」を開いてみてください。「あまりにも低俗な」「言うに耐えないほどの陳腐さ」「生ける災厄」「いびき」「意味不明のたわごと」「牛のような肉欲」「演奏できない」「おぞましい」「音の豚小屋」「音楽界のガキ大将」「火山の地獄」「ガシャガシャ」「汚い」「共産主義のプロパガンダ」「極刑」「けがをした犬の苦しみの叫び」「古生代の生物がうごめく水槽」「昆虫の大量発生」「最悪の部類の屑」「正気を失った宦官」「性的倒錯による鞭打ち」「象」などなどなどなど。人の数だけ罵倒ありといいたくなるほど多種多様な酷評の文言が並んでいて、それがどの作曲家を指しているのか探して読んでみるなんて、逆引きの楽しみ方もできる事典なんです。
でもね、楽曲そのものについての批判ならまだいいんです。今では考えられない、容姿に対する悪口まであるのが凄まじいんです。
先日の晩、カフェ・リッシュでドビュッシーに会ったが、その独特の醜さには驚かされた。顔は平たく、頭頂部は平らで、目は突き出ている——表情はぼんやりとしていて陰気だ——全体的には、長い髪ともじゃもじゃのひげ、野暮ったい服にソフト帽も手伝って、フランス人というよりも、ボヘミア人やクロアチア人、フン族のように見えた。高く突き出た頬骨は、その顔にモンゴル的な風貌を与えている。短頭型で、髪は黒い。(中略)この男は東洋からやって来た生霊なのだ。
ジェームズ・ギボンズ・ハネカー『ニューヨーク・サン』紙 1903年7月19日『クラシック名曲「酷評」事典 上』より
……ジェジェジェームズ、恐ろしい子っ!
好きな作曲家のところから読んでもいいし、さっき書いたとおり気になる罵倒語が使われている箇所から読んでもいい。編者スロニムスキーの自著へ寄せた評論や作曲家の望月京さんによるエッセイ、山本貴光さんの解説が素晴らしいので、それらを読んで本書の楽しみ方の見取り図を得てから本文に入っていくものいい。今では名曲とされている楽曲が発表時にはこんな酷評も受けていたのかと、ページを開くたびに驚かされるこの上下巻は、ちびちび長期間にわたって愉しめる逸品なのです。
当時の音楽評論家は当時の耳で聴いていた
書評という「評」を生業としているわたしは、この酷評が当時の音楽をめぐる運動にどんな燃料を投下したのかが気になります。気概のある作曲家は反論したに決まってますから。あと、この酷評、書いた本人たちはこんなふうに後世の人に読まれると思っていたのかも気になるところです。留意すべきは、当時の音楽評論家は当時の耳で聴いていたということ。それまでの音楽の常識のくびきから逃れていない耳で聴くのと、その後の音楽の多様性に触れた現代人の耳で聴くのとは当然違ってくるわけで、だから事典を読みながら「バッカでえ。ベートーヴェンの第九にこんな見当違いな罵倒を浴びせてやんの」とは、わたしには思えないんです。自分が以前批判した芥川賞候補作品も100年後の読者の目で読んだら、と想像すると震え上がってしまうので。
芸のある酷評は読んでおもしろい。真剣な酷評は次の評を生むから価値がある。そして、酷評は怖い。折に触れては開きたくなる本がまた増えました。
最後にわたしが書いた酷評、100年後の読者も共感してくれるという自信のある酷評を挙げて終わります。書評サイト『ALL REVIEWS』で読める原稿です。渡辺淳一『愛の流刑地』(幻冬舎文庫)、前後編でお楽しみください。
『愛の流刑地』(渡辺淳一/幻冬舎) 書評 豊崎 由美
前編 ジュンちゃん入魂の大作。偏執的に描かれた性技の国際見本市!『ALL REVIEWS』
後編 自己愛だだ漏れの陳腐な台詞に脱力『ALL REVIEWS』
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