カズオ・イシグロ『クララとお日さま』vsイアン・マキューアン『恋するアダム』AI小説激突を書評家・豊崎由美がジャッジ

2021.4.11

1.視点──人間臭い『クララ』冷たい『アダム』

共に一人称視点で物語られる作品なのですが、『恋するアダム(以降『アダム』)』の場合は、アンドロイドを購入するチャーリーの〈わたし〉語りで、『クララとお日さま(以降『クララ』)』はAIロボットの〈わたし〉語り。

この違いによって、前者ではチャーリーの目や感情を通したAIが描かれていくため、成長の過程でたとえアダムに内面が生まれたとしてもそれについての描写はなされず、どこか冷たい得体の知れない他者としてアンドロイドが物語世界に存在することになります。

一方、『クララ』では、AIの内面について豊かに描写されていきます。その反面、クララがどんなに優れた観察眼や思いやりを持ち、感情面でも知能面でも成長することができるAF(人工親友)だとしても、アダムと違ってネットにアクセスして即座に知を集積できる仕様にはなっていないせいで、その時点で欠けている知識のために周囲で起きていることを正確に分析できないこともしばしば起こります。

2.AI──親友優先の『クララ』ルール優先の『アダム』

アダムは「あらすじ」や「視点」でも述べたとおり、インターネットにあふれている膨大な知の中から最適解を求める能力があります。アシモフが提唱したロボット工学三原則の「人間への安全性、命令への服従、自己防衛」のうち最初と最後の項目には忠実ですが、「命令への服従」に関しては、不十分。彼が最優先させるのはチャーリーの命令ではなく、人間社会が作り上げたルールです。法といっても構いません。なので、いくらチャーリーやミランダのためであっても嘘はつけないし、常にルールのほうを優先させてしまうんです。

クララは違います。彼女が最優先するのは常に親友のジョジーの生存であり、気持ちです。天才級の知識を悪意なくとうとうと述べ立ててはチャーリーとミランダを辟易させてしまうアダムとは違って、常にジョジーの邪魔にならないよう、ジョジーがイヤな気持ちにならないよう、ジョジーが健やかでいられるよう、静かに気遣ってばかりいるんです。

というわけで、好感度は圧倒的にクララに軍配が上がります。もっ、読んでると切なくなってくるほど、優しい子なんです。ただ、ユーモアという面ではアダムのほうが上。とはいえ、アダムが上手なジョークを言えるからではありません。人間社会でもまま見られるように、融通が利かない人物の言動が時に巧まずして笑いを生むことがありますが、アダムが巻き起こすのもまさにそれ。チャーリーとの凡才天才漫才のようなかけ合いが生むシニカルな笑いは、『アダム』の大きな美点です。

3.背景──未来社会の『クララ』現実と異なる1982年の『アダム』

『アダム』の背景となっているのは1982年のイギリスですが、現実の82年とはだいぶ様相を違えています。イギリスはフォークランド紛争で大敗し、鉄の女サッチャーが退陣。12年ぶりに再結成されたビートルズが新譜を発表。1954年に不審死を遂げたはずのアラン・チューリングが生きていて、アダムのような完璧なアンドロイドの開発に重要な役割を果たしています。つまり、○○が××だったらこんな世界になっていたかもという思考実験を、作者のマキューアンは物語の背景で行っているんです。

『クララ』の舞台は未来社会です。AF(人工親友)といわれるAIロボットが、アクセサリーや食器などの雑貨を扱う店で売られていて、AFはバージョンによって値段も違い、その家の子供が成長して用なしとなれば気軽に廃棄されてしまいます。また、粗筋でも触れたように多くの子供が〈向上処置〉を受けていて、これは遺伝子操作によって知能を高くするのみならず、集団行動を乱さないとかルールが遵守できるといった、社会生活を潤滑に送るために有利な性格に誘導する処置です。この設定によって醸される作品世界の空気感は、イシグロの世界的ベストセラー『わたしを離さないで』を彷彿とさせます。

『わたしを離さないで』カズオ・イシグロ 著/土屋政雄 訳/早川書房
『わたしを離さないで』カズオ・イシグロ 著/土屋政雄 訳/早川書房

4.教養──『クララ』<『アダム』

断然『アダム』が上。ありとあらゆる知から最適解が出せるAIやアラン・チューリングが生存しているという設定ゆえに、作者のマキューアンがこの小説内で提示している知の領域の広さと深さは、「いったい、どれだけ多くの参考文献を読んだのだろう」と感嘆の声を上げてしまうほどです。人間の知性を軽々超えていくアダムの声を借りて人類と文明の未来像を展開し、チューリング自身に人工知能の仕組みと可能性を解説させる。そうした博覧強記の記述が知的好奇心をそそる上、マキューアンは自ら俳句を作るようになるアダムを通して、文学の現況と未来についても考察。それに賛同するかしないかは別として、非常に斬新で刺激的な文学観が展開されているのも『アダム』という小説の瞠目すべき特色といえましょう。

カズオ・イシグロは『わたしを離さないで』でもそうであったように、社会がどうしてそのようになったのか、技術革新がどのように生まれたのかといった仕組みや、その変化を支える科学的教養の開陳は行わない作家です。クローンにしても今回のAIロボットにしても、ある種の寓意として提出されており、描こうとしているのは、それが大昔(『忘れられた巨人』)であっても未来であっても、○○が××だったらというシミュレーションの思考展開ではなく、常に“今ここにある危機”であるように思います。AIロボットを主人公にすることで求められるべき人間性を提示し、子供たちに施される遺伝子操作という設定によって多様性を守ることの意義を突きつける。それを、未熟だけれど心優しいAIの無垢な語りによって伝えてくるから、読む側も静かに豊かに感情を揺すぶられることになるんです。読み終えて「ずるーい」と声を上げたのはわたしばかりではありますまい。

『忘れられた巨人』カズオ・イシグロ 著/土屋政雄 訳/早川書房
『忘れられた巨人』カズオ・イシグロ 著/土屋政雄 訳/早川書房

5.驚き──『クララ』>『アダム』

『アダム』では、チャーリーとミランダの関係やミランダが抱えている秘密をめぐっての展開が、アダムの嘘がつけず理想を曲げられないという特性によって思わぬ方向に転がっていきますが、驚くというほどではありません。理知的で法を遵守するアダムと、時に衝動に負け、嘘もつき、黒と白の間で右往左往する人間の対比がおもしろい小説ではありますが、基本路線としては理が勝っている書き方になっているため、途中で決着の方向性が見えてしまうんです。なので「驚き」という面ではどうしても弱くなってしまうのですが、しかし、「こうなるんだろうなあ」と思いつつも、読み始めたらやめられないほどのリーダビリティを備えているのは確かです。知とエンタテインメントがハイレベルで両立。巧過ぎるにもほどがある小説だと、わたしは思います。

『クララ』の内容紹介に関して、実はここに至るまで触れなかった要素がいくつかあるんです。なぜなら、「驚き」にまつわることだから。お店でクララを購入する際、ジョジーの母親がクララに娘の真似をさせたのはなぜなのか。母親がジョジーの肖像画を描いてもらっているのはなぜなのか。ジョジーのお姉さんはそもそもどういう理由で亡くなったのか。そうした読んでいる最中「?」が浮かぶようなエピソードの数々が、最終局面で、ある衝撃的な真実に結びついていくんです。その「驚き」はこれから読むあなたのためのものです。

ネタばらしに配慮しなくてはならないので、細部の比較に関して足らないところも多いかと思いますが、拙文を通して「2作とも読みたい!」と思ってくださる方がいたらうれしいです。わたしは読んでよかったなあと思っていますし、「AI」という共通点を持った現代文学を代表する作家による2作品が、ほぼ同時期に翻訳刊行されたのは日本だけ。その恩恵にあずからないという手はありません。

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