「原宿に、行きたい。」
パンス 90~00年代の日本文化は、J-POPに代表されるように内需で成り立っていたようなところがありましたが、昨今は再び輸入文化礼賛モードに戻りつつあるようです。欧米のリベラルな思想はSNS経由で輸入され、向こうのネットジャーゴンが流行ったり。日本の映画ポスターのデザインが海外と比べてカッコ悪いといった類の話題も定期的に出てきます。
いずれにしろ、古き日本の悪習を捨てて「価値観をアップデート」しようと訴える声が強くなりました。まったくそのとおりだと思いますが、そう言っている人たちも、ちょっとした意見の不一致で集団化して誰かを非難したり、陰口を言い合っていたりします。それらを見るにつけ、これぞ日本というか、まずはこの学校の教室みたいな雰囲気をどうにかしたくなります。あらゆる場所で横並びを強要される、その構造だけは持続しています。
プシク 輸入には「輸入業者」がいるわけですね。商売人や知識人です。しかし、アメリカの場合、そういう人たちの出番はあとからで、まず南米なりアフリカなりから生身の人が持ち込むところから始まるわけです。歌も憎悪も運動も、型だけが輸入されるのではなくて、それを《生きている》人間がまず来るのです。
BLMももう日本に「輸入」されているのでしょうが、そういう運動をせざるを得ない主体は不在のままでしょう。アメリカのBLMの根には、日本では信じられないような貧富の格差があります。ジョージ・フロイトを軍隊式の方法(警察では禁じられているはず)で窒息死させた白人警官だって、富裕層ではありません。クビになれば生きていけない。こちらも、命がけなのです。軍で覚えたことを必死でやってしまった。
国が軍事に金を使い過ぎている上に、街で何が起ころうと知ったこっちゃないという超富裕層が優雅に暮らしているという現実があります。日本だって貧富の格差は歴然とありますが、そのへんが目立たないようにする《分子的》支配の技法が歴代つづいている。それは、貧困に陥れば見えるというわけでもない。その意味で、歌は、そういう支配の最も効果的な文化装置なんじゃないかと思います。
コメカ 特に70年代以降の日本社会では、あらゆる物事を消費物や輸入品として、つまり具体的に《生きている》人間による/関わる行動や表現としてではなく、メディアの皮膜の向こう側で起きる企画・イベントとしてしか見られなくなる傾向は強まりつづけたように思います。
9月に大坂なおみが全米オープンで2度目の優勝を果たしましたが、スポンサーの日清食品は自社広告での彼女の写真に「原宿に、行きたい。」とキャプションをつけ、「どんな応援をすれば大坂なおみ選手の勝利に貢献できるのか色々と考えた結果、大坂さんのことを好きになってもらえたら勝ちだなという結論にたどり着いたので、かわいい情報を置いておきます」というコメントと共に、広告画像を会社の公式ツイッターに投稿しました。BLMの発信も強く打ち出しつづけた大坂の発言の中から日本の有名企業がピックアップするのは「原宿に、行きたい。」という言葉であり、その事態そのものを「かわいい」という言葉でくるんでしまう。
コメカ またこれは別の話題ですが、11月付でDHCが吉田嘉明会長名で差別文書を公式サイトにアップし、批判を受けています。しかしそれでも、日本国内でDHCが致命的にダメージを受けている状況ではまだありません。
あらゆることが皮膜の向こう側で起こる「他人事」であり、深刻なカタストロフが現実の世界にやってくることはないだろう、というような感覚が、なぜかこの社会では広く共有されているように思えてなりません。そのことが、暴力もそれに対する抗議もすべて「無意味化」しようとする奇妙な欲望として、社会の中に顕れてしまっているように感じます。
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