事件概要2「なつまでに ごついこと やったるで」
そして3度目のチャンスにして、事件最大の山場となったのは11月14日、ハウス食品の脅迫事件での取引時だった。このとき犯人は同社に対し現金1億円を要求、受け渡しのため指示されたその日、社員を装った大阪府警の捜査員たちが白いワゴン車に現金を積んで東大阪市のハウス食品本社から出発する。その後、同社の北大阪出張所に電話があり、テープに吹き込まれた男児の声で城南宮バス停のベンチ裏に指示書があると伝えられた。
それからというもの、現金輸送車は各所に置かれた指示書どおり、京都南インターから名神高速道路に入って名古屋方面へ、途中、滋賀県内の大津サービスエリア、草津パーキングエリアと立ち寄りながら走った。大津サービスエリアでは、現地で張り込んでいた大阪府警の捜査員たちがキツネ目の男を目撃するも、やはり「職務質問はするな」との上層部の指示でまたしても取り逃がしてしまう。
草津パーキングエリアを出た現金輸送車は、犯人の指示書に従って、そのまま名古屋方面に走り、左側の柵に白い布が見えた地点で停車する。指示書では、布の下に空き缶があると記されていたが見つからず、結局、この日の捜査は打ち切られた。
その少し前、現金輸送車が草津パーキングエリアに向かっていたころ、白い布のあった柵からわずか50メートル手前の県道に不審なライトバンが停車しているのを、滋賀県警のパトカーが見つけていた。パトカーが横づけし、懐中電灯を照らして車内に男がいるのを確認した瞬間、ライトバンは急発進する。パトカーはサイレンを鳴らしてライトバンを追いかけたが、相手は一帯の地理を熟知しているかのように細い道を走り回った末、草津駅前商店街の入口近くで姿を消してしまった。パトカーの警官たちは、この日、名神高速道路で捜査が行われていることを知らされていなかった。
犯行グループはその後、1984年12月に不二家へ脅迫状を送りつけたが、年が明けた1985年2月27日には森永に対し休戦を宣言。3月には和菓子の老舗・駿河屋に脅迫状が届いたあと、さらに大阪城天守閣に挑戦状が置かれているのが見つかり、その文面は「なつまでに ごついこと やったるで」と結ばれていた。だが、その後、犯人は目立った動きを見せることはなく、沈黙する。
8月7日には、滋賀県警の前本部長が自ら命を絶った。滋賀県警は前年11月の一件が、犯人を「取り逃がした」と報道されていた。その5日後の8月12日、マスコミ各社に「たたきあげの 山もと(本部長の姓) 男らしうに 死によった」「くいもんの 会社 いびるの もお やめや/このあと きょおはく するもん にせもんや」などと書かれた挑戦状が届き、犯人から幕引きがなされる。まさにその日、羽田発大阪行きの日本航空123便が群馬県の山中に墜落、520名もの犠牲者を出す。123便の乗客にはハウス食品社長の浦上郁夫もいた。浦上は事件終結を創業者である父親の墓前に伝えるため、大阪に向かう途中であった。
警察は2000年に事件が完全時効を迎えるまでに、懸命の捜査をつづけたが、ついに犯人逮捕には至らなかった。犯した罪状の多さ、また犯人の世間に対する振る舞い方など、あらゆる面で特異というしかない一連の事件は、とうとう未解決のまま終わってしまったのである。
誰でも簡単に思いつくのやないか
犯行グループについては、脅迫された企業の内部犯行説が事件発生当初より囁かれていたほか、暴力団や総会屋、新左翼の過激派、株の仕手グループ、はたまた外国の情報機関などさまざまな組織の関与が疑われた。1985年1月には、捜査中に目撃された「不審な人物」としてキツネ目の男の似顔絵が公開される。これに対する反響は大きく、「似ている男がいる」との情報が殺到した。
キツネ目の男に似ているとされ、警察から事情聴取された中には、前出の『突破者』の著者・宮崎学もいた。宮崎は、キツネ目の男が警察に目撃された日にはアリバイがあり、別人であることは間違いない。ただ、過去に企業恐喝事件での逮捕歴(結局、不起訴に終わったのだが)があるほか、京都のヤクザの息子として生まれ、学生運動での活動歴、グリコの労使紛争で組合を支援したこと、さらに週刊誌の記者時代に株式欄を担当していたことなど、事件への関与を疑わせる点が多々あったため、警察のみならずマスコミ関係者からもマークされることになる。本人が新聞記者などを逆に取材したところ、警察は自分を「最重要参考人」と見ていたと知り、驚いたという(『突破者(下)』幻冬舎アウトロー文庫)。
一連の事件では、フィクションからヒントを得たのではないかと疑われた犯行もいくつかあった。たとえば、丸大脅迫事件での現金受け渡しにおける、電車から現金の入ったかばんを落とせという犯人の指示は、児童誘拐を描いた黒澤明監督の映画『天国と地獄』(1963年)における身代金受け渡しのシーンを思い起こさせる。
あるいは、森永脅迫における現金受け渡しでは、京都府守口市内の美容院の向かい側に置かれたブルーの容器に1億円入りのバッグを入れるよう犯人から指示があった。その容器が置かれたのは、自転車置き場の一角。自転車置き場は工事現場と隣接し、鉄板の壁で仕切られていた。鉄板壁の真下にはマンホールがあり、蓋がずれて自転車置き場側には直径の10分の1ほどの穴がのぞいていた。例の容器はその穴をふさぐため、工事関係者が近くで拾ってきて置いた衣装箱だという。結局、この日(1984年9月18日)、犯人は現れず、捜査員は現金を引き上げた。後日、犯人は挑戦状で、鉄板壁越しに容器の底を破って現金を奪うトリックなど3種類の奪取方法を明かしている(朝日新聞大阪社会部『グリコ・森永事件』朝日文庫)。
犯人が明かした手口と類似のトリックが、黒川博行の小説『二度のお別れ』に出てくる。同作は事件の前年にサントリーミステリー大賞の佳作を受賞、森永が脅迫された1984年9月に単行本が出版された。警察は捜査の過程で、著者の黒川のほか賞の関係者などにも事情聴取を行ったという。黒川はのちに、《あんなトリックは俺の本を読まなくても、マンホールの仕事をする人であれば、誰でも簡単に思いつくのやないか、と話した記憶があります。あの本のことを調べまわっていたようやけど、捜査の視点がちょっとズレているんやないかな、と正直、思いました》と語っている(森下香枝『グリコ・森永事件「最終報告」 真犯人』朝日文庫)。
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