若林正恭『カバーニャ要塞』が文庫化。これは中年の足元を照らす、新たな時代の名著である (花田菜々子)

2020.10.8

文=花田菜々子 編集=田島太陽


お笑い芸人・オードリー若林正恭の旅行記『表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬』(KADOKAWA)が、このたび発売から3年の時を経て文藝春秋から文庫化された。文庫版では新たにモンゴル編・アイスランド編・コロナ後の東京編の3編が追加され、すでに単行本を読了した者にも新たな読み応えを感じさせる一冊となった。

文庫増補分も含めたこの作品の魅力と、これからの時代の「中年」の生きるべき道を書店員の花田菜々子が解説する。


旅文学に必要なのは、自らの内面を見つめる力

この本はオードリーファン、お笑いファンだけでなく、多くの人に手に取ってほしい一冊である。その理由は単純明快で、お笑い芸人のエッセイという枠を超えて優れた紀行文であり、長く読み継がれるべき名著だからだ。

この本を貫く一番の魅力は、中学生のような瑞々しい視線だ。羽田空港でのチェックイン、機内、飛行機が到着するまで……のまだ何も起きていない段階から圧倒的な文章力で、もう読者を「初めてのひとり旅の興奮」に強烈に取り込んでいく。翌朝、ホテルの屋上に出てキューバの景色を初めて目にしたときの描写などは、何度読み返しても著者の震えるような喜びが伝わる名シーンだ。

ぼくは笑っていた。「笑み」というレベルではなくて、口を押さえてほとんど爆笑していた。これはどんな笑いなんだろう。誰かの顔色をうかがった感情じゃない。お金につながる気持ちじゃない。自分の脳細胞がこの景色を自由に、正直に、感じている。
今日からそれが3日間限定で許される。なぜなら、キューバに一人で来たからだ。

『表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬』より

語りの饒舌さやおもしろさを、著者が長くラジオパーソナリティーを務めていることや漫才師であることと無理やり結びつけて語ることもできるかもしれない。だが、同じ職種の人々にこの才能が備わっているだろうか?と想像してみると、このいきいきとした表現力は彼だけが持つ稀有なものであることがよくわかる。

旅行記、旅文学のおもしろさとはなんだろう。それはおそらく日本で一番読まれている旅行記であろう『深夜特急』(沢木耕太郎)などにも言えることだが、未知なる世界との出会い(外)と書き手の逡巡や変化(内)が絶えず繰り返されることではないか。たとえばそのどちらかだけを抜き出した『深夜特急』ほど読んでつまらないものもないだろう。旅文学に真に必要なのは、珍しい土地や大きな事件ではなく、自らの内面を見つめる力なのだと思う。

『深夜特急1 ー 香港・マカオ』沢木耕太郎/新潮文庫

“呪い”に縛られずに生きられるのか?

この本を語る上で欠かすことのできないテーマがひとつある。それは現代の日本に蔓延する〈新自由主義〉への疑問である。いや、ほとんど異議といってもいい。お金がたくさんあるほうが幸せになれると私たちをそそのかし、勝手に競争のレールに乗せ、結婚相手にスペックなんてものを求める社会。でも誰も幸せそうな顔をしていない灰色の国。

日本とは異なる社会主義国のキューバでは、人はどんな顔をして生きているのだろうか? そこでは人々はそんな呪いに縛られずに生きれているのではないか?というのが著者の大きな関心事となっている。

日本の社会の中で生きづらさを感じている人にとっては、より自分事としてこの本を楽しむことができるだろう。

さらに旅の終盤ではこのキューバ行きのもうひとつの目的が明らかにされ、旅の終わりをよりセンチメンタルに彩る。一冊で何重にも味わうことのできる多層的な構成になっているが、それがたった5日間の出来事を書いただけのものだということに改めて驚愕する。


若林が旅シリーズを100冊出すなら、私は100冊買いつづける

さて、文庫ではさらにふたつの旅が追加され、コロナ以降の東京(著者の現在地)が加筆されて、単行本のときとはまた違う結末が導き出されている。

アジアの草原の風景と音楽に自らのルーツを確信するモンゴル、日本人のツアー団体に組み込まれて生来の人見知りぶりを発揮してからまさかの下ネタで終わるアイスランド、とそれぞれの旅はまったく異なる色を見せながら、どの旅もそれが自身ではコントロールすることのできない味わいを持つことを伝え、かつ、いかにキューバの旅が特別であったかを逆説的に伝えるものでもある。

著者はこのままあらゆる海外に出向けば無限におもしろい紀行文を書きつづけられる才能の持ち主である。著者が旅シリーズを100冊出すならおそらく私は100冊買いつづけるだろう。しかしそれでもなお、このキューバ旅行記のような特別な紀行文はこれが最初で最後なのではないかと思ってしまう。それくらいキューバ編には突出した輝きがある。

「これが自分だ」と確信できる、喜びに満ちた生き方を


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花田菜々子

(はなだ・ななこ)書店員。ヴィレッジヴァンガードほか複数の書店勤務を経て、現在はHMV&BOOKS HIBIYA COTTAGE店長。著書に自身の体験を元に綴った『出会い系サイトで70人と実際に会ってその人に合いそうな本をすすめまくった1年間のこと』『シングルファーザーの年下彼氏の子ども2人..

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