吉村府知事が忘れても、我々はポビドンヨードを忘れない。『わかりやすさの罪』と単純な思いつきの怖さを忘れまい
先月4日、吉村府知事によるイソジン会見。あれを鼻で笑って終わらせるのは簡単だけど、わかりやすい言葉の危うさに気づくにはよい機会だったのではないか。印象的だった「ポビドンヨード」すら忘れ去られていくなかで、書評家・豊崎由美は、武田砂鉄の近刊『わかりやすさの罪』を読んでほしいと訴える。
「うそみたいな本当の話で、うそみたいなまじめな話をさせていただきたいと思います。皆様もよく知っているうがい薬を使ってうがいをすることによって、コロナの患者さん、コロナがある意味減っていく。コロナに効くのではないかという研究が出ました」
(吉村洋文大阪府知事 2020年8月4日 テレビ、新聞、ネットを問わずさまざまなメディアにて報道)
難解な言葉、不可解な言葉が足りない
演じている役と現実の自分の境が混沌とするほど深く神経を疲弊させた俳優である男とその妻が、転地療養と称して長きにわたり疎遠になっている男の故郷へ旅することになる。雪国の町に降り立ったふたりは、男の実家に向かうバス停の場所を尋ねようと理髪店に立ち寄るのだが、そこである騒動が起きてしまい、妻は事態収拾のために男の姉を呼んでもらう。ところが、現れた姉は、理髪店の女主人と同一人物で──。
だいぶ前の話になって恐縮ですが、2014年9月にシアターコクーンで蜷川幸雄演出による芝居『火のようにさみしい姉がいて』が上演されました。『真情あふるる軽薄さ』や『タンゴ・冬の終わりに』といった名作で知られる清水邦夫の戯曲です。
暗い舞台の上にぽつんと灯りを放つ赤青白からなる理髪店のサインポール。男が俳優で、妻も元俳優という設定によって、さまざまな時空で重なっていく虚実。何が本当で何が嘘なのか幕が下りてもわからない、謎を謎のままにしておくドラマツルギー。別役実戯曲の影響を少しだけ感じさせる、このわけのわからない作品が、わたしは清水戯曲の中で一番好きです。
劇場楽屋の鏡と理髪店の鏡を巧みに利用することで、合わせ鏡が生み出す無限と夢幻のごとき効果によって、この戯曲の謎をより強靱な謎へとグレードアップさせた蜷川幸雄の演出と、大竹しのぶ(姉)、段田安則(男)、宮沢りえ(妻)の、火のように烈しく水のように融通無碍な演技も相まって、上演から6年が過ぎた今も忘れられない舞台なのですが、そのステージに負けないほどの感銘を受けたのが公演パンフレットに載っていたブルボン小林の「我々には『言葉』が足りない」というエッセイだったんです。
おそらくは著書『ぐっとくる題名』のように、この作品の奇妙なタイトルを論じてほしいという制作サイドの要請によって書かれたのであろうこの文章は、皆さん覚えておられるでしょうか、あの使途不明金について記者会見で号泣した兵庫県県議のエピソードから始まっています。
〈だが、大号泣した、あの派手な記者会見よりも、その後でインターネットのブログに載せた彼の謝罪の言葉の方に僕は驚いた〉〈日本語がとても拙いのだ〉〈そっちにこそ(昨今のいろいろ変なことに対する)不安の真相がある。彼はもっともらしく言葉を並べているのに、彼自身が言葉のグリップをまるで掴んでいない。我々には今、圧倒的に「言葉」が足りない〉
その前置きから、ブルボンは清水邦夫が芝居の題名に詩を引用することについての論考へと言葉をつないでいく。そして、〈いわば「二人掛かりの言葉」〉である「引用」は頼りがいがあり、〈さらに引用が詩であることにも信頼がある〉と論を広げていき、今誰も詩に目もくれないから〈変な県議が不気味な記者会見をするのである!〉、なぜなら難解な現代詩は〈我々の生活とは無縁の高いところにあってただみあげるものになってしまっ〉ているけれど、〈我々は茶番のような現実の景色に倦んでいるし、おかしいと不安に思っている。「簡単な答え」ではない(難解であっても、本当にほしい)答えに寄り添ってくれる言葉を、潜在的には我々は求めているはずだ〉と前のめりに語り、〈火のようにさみしいという比喩は「不可解」だが、意味も分からずにじっとみつめさせる小さな力がある〉という言葉を置く。
難解な言葉、不可解な言葉が足りない。自分の中に取り込もうとする気持ちも足りない。簡単で単純で一面的でわかりやすい言葉で、わたしたちがお手軽な答えを求めがちなことに対し、ブルボン小林は警鐘を鳴らしているんです。
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