『この世界の片隅に』のすずの怒り。原作とアニメを比較すると
こうのは『この世界の片隅に』を描く上で、注意した部分について、インタビューで次のように答えている。
「戦時中の資料を調べると、竹やり訓練でトルーマンとかチャーチルに見立てた的を刺したり、紙に描いてわざわざそこを踏んで歩くようにしたり、という描写があるんですけれど、そういう特定の誰かを糾弾する様子は排除しました。というのも、庶民は自分たちが悪いという罪の意識も責任感もないまま、簡単に戦争に転がってしまうことがありうることを、いまの時代に伝えなくてはいけないと思ったのです。そういうのを入れちゃうと『この時代の人はこういうことをやっているからダメなんだ』と思って終わりなんですよ。」
『複数の「ヒロシマ」 記憶の戦後史とメディアの力学』(青弓社)
「中国とか韓国に対して日本軍がやったことや差別みたいなのが入っていないと文句を言う人がいるんですけれども、そこらへんを描くと、かえって嘘になっちゃう部分があるんですね。実際、一つの場所に閉じ込められて働かされていた人たちと交流したり、自分だけがその人たちと仲良くしてみんなからいじめられました、私だけは悪くありません、みたいな逃げは作ってはいけないと思ったんです。それは結局免罪符っていうか、現代人の逃げや甘えでしかないような気がします。そういう資料をなるべく入れないようにすることには、けっこう気を使いました。」
こうのは、現代の読者を想定し「読者と登場人物の間に距離を作らないように」「読者が免罪符を得ない」という狙いのために、あえて当時としては当たり前の描写も省いているのだ。この意図は、昭和20年8月15日に玉音放送を聞いた主人公すずの描写を見るとよくわかる。
すずは、昭和19年に嫁いだばかりの新妻で、敗戦時は20歳そこそこ。空襲で右手を失った彼女は、玉音放送を聞いて激高する。
「そんなん覚悟のうえじゃないんかね? 最後のひとりまで戦うんじゃなかったんかね?」「いまここへまだ五人も居るのに! まだ左手も両足も残っとるのに!!」「うちはこんなん納得出来ん!!!」
明るくてのほほんとしたすずの、それまでに見せたことのない怒り。これが、こうのの言う「罪の意識も責任感もないまま戦争に転んでしまう」様子だ。そしてつづけて裏山の畑に足を運んだすずのモノローグが描かれる。
「飛び去ってゆく/この国から正義が飛び去ってゆく/…………………ああ/暴力で従えとったいう事か/じゃけえ暴力に屈するいう事かね/それがこの国の正体かね/うちも知らんまま死にたかったなあ……」
こちらがこうのなりに用意した、すずが一般的な国民として、いかに自分が戦争を担ったかを自覚させたシーンになる。
すずのこの「怒り」と「自覚」を、21世紀の読者に実感してもらうためには、読者がすずに感情を寄り添わせていないと難しい。そのために読者がマンガを読むときに、ノイズやクリシェとして思考停止しそうな戦中の描写を、あえて取捨選択していたというわけだ。
なお、この裏山の畑でのモノローグは、アニメ映画では次のように改められている。
「飛び去っていく。うちらのこれまでが。それでいいと思ってきたものが。だから、我慢しようと思ってきたその理由が。……ああ、海の向こうから来たお米、大豆、そんなもんでできてるんじゃなぁ、うちは。じゃけえ、暴力にも屈せんとならんのかね。ああ、なんも考えん、ボーッとしたうちのまま死にたかったなぁ……」
こちらは原作よりも一層、「当時を生きた人」としてのすずにフォーカスしている。「正義」や「暴力」といった抽象的な概念を使わず、食べ物の輸入という生活実感の中から自らも加害の一端を担っていたことを自覚する、というふうに改めている。
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