太宰治の孫にして津島佑子の長女の「赤い砂を蹴る」
杉江 さて、「赤い砂を蹴る」に移ってもいいでしょうか? 今回太宰治の孫にして津島佑子の長女ということで、マスメディア的には一番話題性があった作者です。本業は劇作家で、小説はこれが初めてだと思います。
「赤い砂を蹴る」あらすじ
他界した母・恭子に代わり、〈私〉こと千夏はその親友だった芽衣子さんと共にサンパウロにやってくる。芽衣子さんには夫のアルコール依存症に苦しめられた過去があり、男と同棲しつつも籍を入れずに生を終えた恭子とは、女ゆえの生きづらさを体験したという共通点があった。千夏は、芽衣子さんが生まれたヤマ、日本人によって創設された農場を訪れる。
マライ 実を言うと、この作品は個人的には一番印象が薄いのです。
杉江 『QJWeb』で書評したときも思ったんですが、母・津島佑子への思慕という部分が見えてくるのとそうではないのとでは、小説への関心度合いが違ってくるかもしれません。
マライ あああああ、そうなんでしょうね。読みながら「何か前提知識を求められている。でもその正体がよくわからない」感がありました。ゲームの、本編抜きで拡張版ソフトだけでプレイしているような。
杉江 それは起動するんですか(笑)。ブラジルのヤマで育った母の友人が、日本にやってきて、姑の押しつける価値観に悩みながら生きつづける、母は母で男とは正式な婚姻関係を結ばずにふたりの子供を育てる、というように、この国で女性が生きるために男にすがらずに生きることのつらさということが背後関係を知らない読者でも共有できる柱としては置かれていますよね。ただ、そうした男性優位社会における女性の生きづらさという問題と、主人公の弟が急死したエピソードは必ずしも一致しません。そこは今言った小説外にあるものが引っ張ってこられる部分なので、もしかすると違和感が生じるかもしれないな、とは思います。
マライ そうなんです。どこか別のところに本来の「中心軸」があるはずなのにそれが見えにくい、という感覚をずっと持ちながら読みました。
杉江 津島佑子の娘である作者が、母が生涯かけて小説化した問題である、失った兄と息子というテーマに無関心でいられるわけはないんですが、それは読者に伝わらない危険はありますよね。
マライ やはり、私も含めて一般読者は、その作品単体で勝負してほしいですよ。
杉江 私も読み始めたときにブラジルの日本人移民社会が舞台なので、あ、これは日本人のアイデンティティの話かなと思ったんです。読み進めるうちにそうではないことがだんだんわかってきて、まずい、と思って慌てて泥縄で勉強しました(笑)。おかげで津島佑子作品をいくつか読んで、たいへん好きになりましたが。
マライ ちなみに、ドイツにある「Deutscher Buchpreis(ドイツ書籍賞)」で選ばれた作品でも、家族の歴史というか、「出身」がテーマだったりします。受賞作のタイトルはまさに『出身(Herkunft)』で、人間はなぜそんなに「ひとつの明確な出身にこだわるのか」という問いかけです。作者の母はボスニア人、父はセルビア人で、ドイツに脱出してきたという経緯があります。受賞は2019年、去年の話です。だからテーマそれ自体は世界的にいけてるのかもしれないんですね。
杉江 シリア出身作家ですけどラフィク・シャミの『愛の裏側は闇』(東京創元社)みたいに系譜を辿るだけで大河小説にしちゃう作家もいるわけですしね。さて、直木賞編に入る前に、今回の候補作を読んでの全体所感みたいなものをマライさんにお聞きしてみたいと思います。
マライ はい。ネットで世間を観察していて感じるのは、いま「知識・情報・見解」として潜在的需要が大きいのは、どちらかといえば芥川賞的なサムシングじゃないか、ということです。売れるのは直木賞的なラインなのかもしれないけど、根本的に深くてシリアスで劇的でリアルな「物語の提示」が求められている感触が、広く濃厚に存在する気がします。それで気になるのが、文芸本流的な作家たちのSNSでの情報発信力・拡散力が、おしなべてそれほど高くないことです。
杉江 なるほど。
マライ ネット言論は基本的に雑音ワールドに過ぎないという認識がもともとあるのかもしれないし、出版業界の伝統的な力を背景に自分の販路は確保されていると考えているのかもしれない。そもそも、ネットに積極的にコミットすることは炎上リスクの高まりを招くだけだし、政治的な議論に巻き込まれて賛否を明確に示さねばならない立場に追い込まれることを忌避しているかもしれない。それらの懸念は確かにまったく正しいでしょう。が、実際の話、今やネット上の存在感というのは、個人の営業力を測る尺度になっている感がある。情報空間の拡大と飽和によってあらゆるものが「キャラ化」している現在、キャラとして自らの存在を顕示できない作家が生み出すプロダクトは、やはり露出という面ですでに極めて不利です。ここしばらくは旧来の販路を引きずった顧客の力でなんとか状態を維持できるかもしれないが、それもやがて埋もれてゆく。「いい意味でキャラ立ちしまくった本格文学的文芸作家」の登場と躍進が期待されるところです。
杉江 ドイツでそうした存在に近い人はいますか。
マライ 日本でも『犯罪』などで知られるようになったフェルディナント・フォン・シーラッハがそうかもしれませんね。彼は文学的文芸というよりはアート文芸寄りの表現者だけど。
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関連リンク
- 『日本文学振興会』芥川龍之介賞 最新情報
- 『赤い砂を蹴る』石原燃/文藝春秋
- 『アウア・エイジ』岡本学/講談社
- 『破局』遠野遥/河出書房新社
- 「アキちゃん」三木三奈(掲載誌/2020年『文學界』5月号/文藝春秋)
- 「首里の馬」高山羽根子(掲載誌/2020年『新潮』3月号/新潮社)
- 『如何様』高山羽根子/朝日新聞出版
- 『ホームランド』シーズン1(DVD)/ウォルト・ディズニー・ジャパン
- 『平成くん、さようなら』古市憲寿/文藝春秋(第160回芥川賞候補作)
- 『架空列車』岡本学/講談社
- 『出身(Herkunft)』Sasa Stanisic/btb Taschenbuch
- 『愛の裏側は闇』ラフィク・シャミ 著、酒寄進一 訳/東京創元社
- 『犯罪』フェルディナント・フォン・シーラッハ 著、酒寄進一 訳/東京創元社
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