【ネタバレ考察『君たちはどう生きるか』】『ハムレット』と“青い鳥”から読み解く宮崎駿のメッセージ
宮崎駿監督による『風立ちぬ』以来10年ぶりの長編アニメーションとして、さまざまな面で話題を呼んでいる『君たちはどう生きるか』(公開中)。
ライターの折田侑駿は、シェイクスピアの『ハムレット』と“青い鳥”に翻弄されるという現実との奇妙な符号が、宮崎駿が本作に込めたメッセージを読み解くヒントになるのではないかと考察する。
『君たちはどう生きるか』このタイトルが放つ真の問いはどこにあるのか──。
【この記事は映画『君たちはどう生きるか』のネタバレを含んでいますので、閲覧の際はじゅうぶんにご注意ください】
“現代性”からほど遠く感じてしまうタイトル
これは著しく現代性を欠いているのではないだろうか──『君たちはどう生きるか』を鑑賞したばかりの私の所感である。いや、宮崎駿監督による本作のタイトルを目にしたときから、すでにこんな気持ちが芽生え始めていた。というか、ある種の胸騒ぎすらした。
それはなぜか。自らの意志によりこの世界を離れていく人々があとを絶たない現代において、「生きる」もしくは「生きていく」のが前提であることが、現代人のひとりとして納得いかなかったから。
事実、「どう生きるか?」と思案する以前に、そもそも私は「生きる」ことが嫌になってばかりだ。“君たち”はどうだろうか。
社会の中心に立つ大人たちの不正が次々と露見し、「多様性」が声高に叫ばれながらも依然として世の中は差別と偏見だらけで不寛容なまま。インターネットにアクセスすれば誰かの悪意に触れてしまうし、世界中のどこかで常に争い事が起きては涙を流している人がいる。個人的なことをいえば、経済的な不安も非常に大きい。息が苦しくなる。
こんな世界で「生きる/生きていく」ことを前提として話をされるのは、いくらあの宮崎駿のような人生の大先輩にあたる存在のこととはいえ、どうにも納得がいかない。少なくとも違和感を覚えはしなかっただろうか。
平成生まれの若者世代のひとりとして、やはり現代性を欠いていると思わずにいられなかった。
『ハムレット』を下敷きに考えてみる
生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ──というのは、かの有名な『ハムレット』において主人公・ハムレット王子が口にするセリフである。
「生きるべきか、死ぬべきか」というセリフの原文は「To be, or not to be」であり、これにはいろんな訳があるのだが、やはり「生きるべきか、死ぬべきか」が最もポピュラーだろう。同作になじみのない方でもこのセリフだけは知っているのではないだろうか。
ここでは広く共有されているこの言葉を、『君たちはどう生きるか』に持ち込んでみたい。
デンマーク王国の後継者であるハムレットには、愛する母・ガートルードと尊敬する父・先王ハムレットがいたが、この父が急死してしまう。その後すぐに彼の弟であるクローディアスが王となり、ガートルードと再婚。叔父が親父となるのだ。
父の死と、邪悪な早さでの母と叔父の再婚。ハムレット王子は苦悩し、やがて例のセリフを口にする。
生きるべきか、死ぬべきか──。
ハムレットを中心としたこの歪な家族関係の構図は、『君たちはどう生きるか』の主人公・牧眞人(まき・まひと)を取り巻くものととても似ている。
太平洋戦争が始まって3年目、眞人は入院中の母・ヒサコを火災により失う。軍需工場の経営者である父親のショウイチは、ヒサコとうりふたつの妹・ナツコと再婚。眞人が母方の実家へ父と共に疎開するところから物語は本格的に動いていく。
戦時下における母の死と、邪悪な早さでの父と叔母の再婚。世界に幻滅してもおかしくはない。そんな彼は謎のアオサギの導きによって、異世界へと迷い込んでいくことになるのだ。
『ハムレット』はウィリアム・シェイクスピアにより400年以上も前に生み出されたものだが、今日においては「生きる/生きていく」ことを前提とした「どう生きるか?」という問いよりも、「生きるべきか? 死ぬべきか?」という問いのほうがしっくりくるのは私だけだろうか。
他人の心はわからない。「生きろ」とも「死ぬな」とも安易には言えないし、言うべきではないと私は考えている。「生きるのがつらいのならやめたっていい」などと言いたいわけでももちろんない。ただ、そういう想いを抱える人々の存在をないことにすべきではないだろう。実際に存在するのだから。
“青い鳥”の存在──虚構と現実における奇妙な符号
物語の中で眞人は次から次へと選択と決断を迫られる。ド派手な急展開の連続で、彼も私たちも前しか見ていられず、通過していったシーン(=過去)を振り返ることはできないだろう。さらなる急展開についていけなくなる。
そんな眞人と私たちには、大きな共通点がある。“青い鳥”に翻弄されることだ。『君たちはどう生きるか』という虚構世界に登場する“青い鳥”とはもちろんアオサギのことで、私たちが生きる現実世界に存在する“青い鳥”とはツイッター(現:「X」)のことである。
眞人にとって“青い鳥”は異世界への導き手であるのと同時に、その理不尽な言動で彼のことを翻弄する存在でもある。一方、私たちも“青い鳥”(の運んでくる情報)に振り回されてばかりだった。
しかし、眞人がアオサギとの出会いによって見たことのない世界と出会うように、私たちの多くがツイッターというサービスを通して新しい世界と出会うことができただろう。どこかの誰かの幸福に触れ、またどこかの誰かの不幸を知った。
目まぐるしく変化する急展開の連続に、選択と決断を誤ってしまった人もいるだろう。こんなことを書いている私だってそうだと思う。眞人は毅然とした態度でアオサギと渡り合うが、私がツイッター(内の情報)と対等だったかというと自信がない。
けれども思い返せば眞人たちのように、手を取り合える瞬間もあったはず。そこに新しい世界を垣間見せてもらったのだから。
やがて眞人の友となった“青い鳥”は彼の前から去っていく。私たちの生きる現実でもそうだ。ツイッターは「X(ばつ印)」を残して消えてしまった。虚構と現実の奇妙な符号である。
“青い鳥”が去った今、改めて個人の選択眼が問われているのではないだろうか。
ヒミの重要な発言
眞人は異世界を旅する中で、炎を操るヒミという少女と出会う。彼女は“ナツコの姉”なのだという。つまり、眞人の実の母であるヒサコの少女時代の姿なのだ。親子としての言葉は交わされないが、どうやらそういうことらしい。
やがて眞人は、異世界から元いた世界へと帰っていくことを選ぶ。時代は戦時中だ。争い、奪い合い、いずれ炎に焼き尽くされるかもしれない世界へと彼は戻る。それはつまり、「生きる」ことを選び取ったのだといえるだろう。
このクライマックスに用意されている、眞人がヒミと別れるシーンが鮮烈に印象に残る。ヒミが異世界から離れれば、いずれヒサコとして入院中の病院の火災で命を落とすことが決まっている。当然ながら眞人は止めようとするわけだが、ヒミはこう口にするのだ。
「素敵じゃないか、眞人を産むなんて」
彼女のこのひと言にハッとさせられ、一気に涙があふれた。ヒミが言っていることとはつまり、「やがて死ぬことがわかっていても、あなたと出会えるなら世界は素敵だ」というものだろう。
私たちの生きるこの現実世界では、やはり誰もが希望ばかりを持てるわけではない。明るい未来は約束されていない。むしろ、戦争や愛する人との別離のような、絶望ばかりが用意されているのだろう。それでも、特別な誰かとの巡り合いがあるのならば、この世界は生きるに足る。ヒミの短い発言からはこんなことが読み取れるのだ。
『君たちはどう死ぬか』とも言い換えられる
これに乗じて『君たちはどう生きるか』というタイトルも言い換えてみる。
『君たちはどう死ぬか』
なるほど「死」を前提としたならば、すべて納得がいく。私たちはいつかどこかで死ぬ。それは避けられない。であれば私はそれまでに、まだ見ぬ友人たちに出会いたいと願う。眞人が絶望的な世界に対抗するため、「友達を作る」と宣言するように。
宮崎駿の監督作を思い返してみれば、『もののけ姫』(1997年)には「生きろ。」というコピーが、10年前に引退作として公開された『風立ちぬ』(2013年)には「生きねば。」というコピーがつけられていた。
これまでもずっと、「生きろ」と作品を通して訴えつづけてきた人なのだ。今度こそ完全な引退作になるかもしれない映画として、『君たちはどう死ぬか』とも言い換えられる『君たちはどう生きるか』が私たちの前に差し出された。
生きるべきか、死ぬべきか──あなたと出会える世界は、生きるに足るのだ。このことを知った上でようやく、タイトルが放つ真の問いに立ち返ることができるのではないだろうか。
私たちはどう生きるか?
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