【東日本大震災から12年】震災ボランティアは「えらい」のか?私が復興支援に行く理由
音楽アーティスト・xiangyu(シャンユー)が横浜のドヤ街・寿町や東日本大震災のボランティアへ通い、執筆したノンフィクションルポエッセイ集『ときどき寿』(小学館)が2022年11月に発売された。
本書の発売を記念して、同書に掲載されているエッセイの一部を特別に公開する。
えらいとか、優しいとか
18歳のある時期、毎週末、東北に震災の復興支援のボランティアに行っていた。東日本大震災が起きたのは高2の3月で、私は学校の美術室にいた。
学校はあんまり好きな場所ではなかったけれど、唯一良かったのが美術室で、そこにいる先生達はみんな何をしていても放っておいてくれるから好きだった。ちょうどその日も美術室で提出期限よりも2週間遅れの課題の制作中だった。
授業は美術と世界史に200%の力を注ぎ、あとは放置、みたいなパワーバランスだった。とにかく持てる時間の全てをその2教科に使っていて、美術の課題ではいつも期限無視で納得がいくものを作っていた。そうやっていつものように作業をしていると、床からドンッと突き上げられ、そのまま今まで経験したことのない、どデカい揺れがきた。とっさに机の下に隠れたけれど、揺れが落ち着いてから周りを見回すと、さっきまで自分がいた場所がわからないくらい物は崩れ落ち、倒れ、酷い有り様だった。そのときはまだ、外ではもっと酷いことが起きているなんてつゆ知らず、ちょっとした非日常感にワクワクしていた。「もしかして電車が止まっていたら、学校に泊まれるかも!?」と期待したが、結局親が迎えに来てしまい、別に帰れなくてもよかったんだけどな…なんて思っていた。
家に帰ってテレビをつけ、ようやく事の重大さがわかった。それからしばらく、学校に泊まれなかったと嘆いた自分と、テレビで流れ続けている東北の悲惨な状態を見ても何もできない自分に、すごく苛立った。
震災から10ヶ月近くたった年末の日、テレビでやっていた震災特番をなんとなく見ていたら、東北の復興状況はまだまだなんてものじゃなく、片付けが終わらない所ばかりで人手が足りないと地元の人達が言っていた。居ても立ってもいられなくなり、速攻で高校生がひとりでも参加できるボランティアを探し、年明けすぐに東北へと旅立った。
ボランティアに行くのに必要な寝袋や交通費を親にもらうのはなんか違う気がして、貯めていたお小遣いから捻出し、「今晩から東北にボランティアに行ってくる。保険にも入ったし、全部自分で準備したから大丈夫。だからしばらく夕飯いらない」とだけ親に告げて行った。
後から「あのとき心配だった?」と聞いたら、「何を今更。いつも全部事後報告で、急に予測できない動きをするでしょう。もうあんたがどっか行くときはいつだって覚悟して送り出してるよ」と言われ、さすがうちの親!と思った。
ボランティアバスでは大人達が「おー先週ぶり」と互いに言葉を交わしている。きっと常連の人達なんだろう。バスといってもマイクロバスで、イメージしていたよりもずっと狭く、足元の荷物の置き方や座席での体勢の取り方は、周りの人を見て真似することにした。バスが発車すると、このボラバス(みんながそう呼んでいたから私もそう呼ぶようになった。それにしても日本人ってなんで大体のことを4文字に略すんだろう?)の運営の人が、急にマイクで喋り出し、全員自己紹介をすることになった。
マイクが回ってきて、初めての参加で、18歳で、ひとりだと言うと、隣の席の推定20歳上くらいのお姉さんに「わからないことがあったらなんでも聞いてね。ここでは親くらいの感じに思ってくれていいけど、自分の身は自分で守るんだよ」と言われ、超その通りだと思い一気に信頼できた。
学校のような同世代しかいない中だと積極的に人に話しかけられないのに、ボランティアに来て自分より20も30も上の人達とはスムーズにコミュニケーションが取れることが不思議だった。変な緊張や萎縮もなく、むしろ今まで感じたことがない居心地の良さを感じていた。
ボランティアで行ったのは宮城県・亘理町(わたりちょう)で、気仙沼の町や、防災庁舎にも立ち寄った。初めて降り立った気仙沼は、ここには元から何もなかったんじゃないかと思うほど、どこまでもだだっ広い土地が広がっていて、嘘みたいに無の気持ちになった。だけど歩き始めると、確かにそこには家があった形跡がたくさん残っていて、まだ積み上がったままの土の中を見ると、片っぽだけの小さな靴や、写真やカバンなど、そこで生活していた人達の影が浮かんできて途端に涙が止まらなくなってしまった。この靴やカバンの持ち主や、この写真に写っている人がどうしているかはわからないけれど、確かにこの町が生きていた痕跡を目の当たりにすると、自分がここで何ができるだろうと勝手につらくなっていた。
亘理町では、イチゴを栽培していた農家のお宅を訪ねた。元あったビニールハウスはもちろん津波で流され、収穫したイチゴを加工する工場も津波の塩害でダメになってしまったと教えてくれた。目の前に広がっている光景はびっくりするくらい何もない。気仙沼と同じように、元からここには何もなかったのでは?と思ってしまった自分がいたけど、塩害の痕跡が残る木々や建物を見た途端、ここで地震や津波があったんだと、実感が湧いてくる。
やっぱりテレビやネットで誰かが発信したものを見ているだけとは違う。その土地に立ってみないと、実感なんて湧かないんだと思った瞬間だった。
またここでイチゴ栽培ができるよう、泥かきや工場の機械を磨くなど、色々2日間お手伝いしたけれど、復旧の目処が立つのは遠い先のことで、これはボランティアとかのレベルではなく、本当にもっとお金をかけて人を派遣しないと、いつまでたってもこの状態のままだと思った。
帰りのバスの中、常連の人達が翌週の話をしていた。話を聞いていると平日は普通に会社勤めをしているらしく、仕事が終わった金曜の夜にボラバスに乗り、日曜の夜に関東に帰り、また月曜日から働くという生活をしているらしい。
ボラバスに乗るのだってタダではないし、平日ずっと家で寝ていられる訳ではないのに、自分の時間やお金を使ってボランティアに行き続ける。すごいと思った。もちろん、行く必要がないくらい町が早く復興してくれればとみんな思っているけど、毎週参加することが苦ではなく、むしろ生き甲斐になっているように見えた。私はまだ18歳で、明日からは学校もあるし、卒業後の進路も考えないといけない。バイトもしていないからボラの資金は貯めていたお年玉を崩すしかない。だから無理のない範囲で行くことにしよう。じゃないと続かないから。と、心に決めたのだった。
*
ところで、「寿町っていうドヤ街に炊き出しに行っていて」という話をすると、「えらいね」と言われることが多々ある。同じ言葉を、震災ボラに行っていたときにも、よくかけられた。震災ボラや炊き出しに行くことが、えらいかどうかはわからない。
えらいとか、優しいとかそんなんじゃなくて、少なくとも私は、単純に考えるより先に体が動いて、まず行ってみて、行ったらまたそこで次に行く理由が見つかって…というのが更新され続けているから、東北も、寿に行くのも何年も続いている。そこに行き続けないとわからない、それでないと構築できない関係性がいつも生まれている。
それはえらいとか、優しいなんて言葉なんかでは表せない、もっともっともーっと尊いものなんだよ。
※『ときどき寿』「えらいとか、優しいとか」より
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『ときどき寿』(小学館)
著者:xiangyu
定価:1,540円(税込)
発売日:2022年11月25日6年前の夏、寿町の夏祭りに誘われて会場の公園に着くと、どこからともなく杖をついたひとりの爺さんがやってきた──。音楽アーティスト・xiangyuが横浜のドヤ街・寿町へ通い、執筆したノンフィクションルポエッセイ。
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