新海誠が新たな冒険に挑んだ『すずめの戸締まり』
さて、『すずめの戸締まり』だ。
『君の名は。』『天気の子』につづく(なんとなくの)三部作の締め括り。そう感じている向きも多いのではないか。内容的な関連はないにしても、フォーミュラ強化三部作だろう、と。
結論から言おう。
これは、新海誠が一度手にしたフォーミュラを手離した作品である。ある意味、『君の名は。』や『天気の子』のファンにまったく媚びていない、とも言える。
もちろん、「らしさ」はある。彼のアニメーションならではの仕かけはイントロに用意されている。だが、それはあくまでも、入口に過ぎない。
大きな変化がある。
まず、アニメーション的な躍動感やダイナミズムに頼らなくなったこと。
そして、『天気の子』で最高潮に達した、具体的な土地に対するフェティシズム(それゆえファンの聖地巡りも活発化した)が薄れたこと。
この2点は、『君の名は。』や『天気の子』を期待する近年のファンにとっては違和感かもしれない。
震災をテーマの一つにしたことは明言されているし、実際、地震も描写される。
むしろ、フォーミュラをさらに強化して、万人を納得させる感動作に仕立て上げるほうが自然だ。だが、新海誠は、それをしなかった。フォーミュラも、スケールも、躍動感も、ダイナミズムも、手の内にあるというのに。それを手離しているのだ。震災ものであれば、土地に対するフェティシズムは非常に有効である。にもかかわらず、ほぼそれをやっていない。
ここに、勇気を感じる。
端的に言えば、これはロードムービーである。
使命らしきものもあるし、奪還や回帰、解放の物語でもある。導入と幕切れが呼応してもいる。だが、フォーミュラは機動しない。これが素晴らしい。さまざまな見せ場があることはあるが、それらがカタルシスに直結することはなく、むしろただのトピックとして通過していく。
そして、大仰な緊張感は漂わないし、演出されない。
言ってみれば、すべてが【旅の通過点】であり、そこに殊更な差異や落差を設けていない。旅の行程で起きる、あらゆる出来事は等価なのだ。
ここに、新海誠の冒険がある。
旅のパートナーとなる存在が序盤で、脚のひとつ欠けた椅子に変身してしまうことにはさまざまな解釈が成り立つだろうが、ひとつハッキリ言えるのは、【抽象化】が必要だったということ。
すべては、過ぎ去っていくのだということ。
そして、過ぎ去っていくから、大切なのだということ。


なにしろ、新海誠は【傷の匂い】を描いてきたアニメーション監督なのだから。
旅で出逢った人。旅で出逢った土地。
そのすべては素晴らしい。だが、いつか再会するにせよ、旅とは、すべてが別れの連続である。もう二度と、同じ人、同じ場所に出逢うことはできない。あらゆることは一期一会だ。この普遍を前にしたとき、すべては等価のものになる。
そこでは、フォーミュラも、スケールも、躍動感も、ダイナミズムも、フェティシズムも、全部、いらない。
旅は、ただ、つづいていく。それだけなのだ。
たとえば、どこかに辿り着いたとしても、それは終わりではない。またひとつ、別れが増えただけのこと。無数の別れと共に、私たちは生きているのだということ。
それが丹念に、愚直に描かれている。


『すずめの戸締まり』は、新海誠の初期作を思い起こさせる。
そういえば『ほしのこえ』(2002年)の冒頭には【戸締まり 忘れずに】の文字があった。
そして『彼女と彼女の猫』(1999年)のラストのモノローグ(新海誠自身の声がそこにはある)【僕も、それから、たぶん、彼女も、この世界のことを好きなんだと思う】ほど、『すずめの戸締まり』の本質にふさわしいフレーズもない。
新海誠は、一度手にした大きなものを手離した。
しかし、これは原点回帰ではない。かつての作品のような心象や言葉への耽溺も、もう感じない。もっともっと、手ぶらで、生きることに向かい合っている。喪失を恐れず、むしろ喪失の風情を慈しんでいる。
本当の意味で、彼は先に行ったのだ。
別れの分だけ、人生は先に進んでいる。
なにしろ、新海誠は【傷の匂い】を描いてきたアニメーション監督なのだから。
『すずめの戸締まり』は、新海誠による、新海誠の【卒業式】と言えるかもしれない。
Graduation!

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『すずめの戸締まり』
2022年11月11日公開
監督・原作・脚本:新海誠
音楽:RADWIMPS、陣内一真
声の出演:原菜乃華、松村北斗、深津絵里、染谷将太、伊藤沙莉、花瀬琴音、花澤香菜、神木隆之介、松本白鸚
(c)2022「すずめの戸締まり」製作委員会関連リンク
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