赤裸々過ぎる恋愛映画『わたし達はおとな』。女性目線で描かれた圧倒的な“等身大のラブストーリー”

2022.6.11
映画『わたし達はおとな』 (c)2022「わたし達はおとな」製作委員会

(c)2022「わたし達はおとな」製作委員会
文=折田侑駿 編集=森田真規


「劇団た組」を主宰し、今最も注目されている演出家・劇作家のひとり、加藤拓也の長編映画監督デビュー作『わたし達はおとな』が6月10日に公開された。

『愛がなんだ』や『花束みたいな恋をした』、『ちょっと思い出しただけ』など、ここ数年で話題になったどの“等身大のラブストーリー”よりも『わたし達はおとな』の“等身大”度は高い、とライターの折田侑駿氏は感じたという。その理由とは──。

紛れもない“わたし達”の物語

見ず知らずのひと組の男女の生活をのぞいていたら、そこに観客である自分自身を見つけてしまう。彼・彼女らに自分自身を重ねてしまう──。

現在28歳、演劇界の若き俊英・加藤拓也による長編映画監督デビュー作『わたし達はおとな』は、そんなリアリティを持った恋愛映画だ。もう子供ではないが、かといって大人にもなりきれない若い男女の関係が、ヒロインの視点を通して綴られている。

映画『わたし達はおとな』ポスタービジュアル

本作は、新たにスタートした映画製作プロジェクト「(not)HEROINE movies」から生まれたもの。“等身大の女性のリアル”を紡ぐ映画シリーズであり、次世代を担う映画監督と俳優たちを組み合わせ、それぞれの感覚と才能を存分に発揮できる場を作ることが目的らしい。公式ホームページには「“ヒロイン”になりきれない“ヒロイン”たちの物語」とある。つまりこの『わたし達はおとな』は、あなたや私のすぐそばにいる、あるいは私やあなたのようなヒロインの物語だといえるだろう。描かれているのは確かに、あちこちに転がっている物語だ。

ある日、自分が妊娠していることを知った大学生の優実(木竜麻生)。彼女は恋人の直哉(藤原季節)に対して、妊娠と、ある事実を告白する。演劇に夢中な直哉は将来的に自分の劇団を持ちたいと考えており、優実のこの告白がきっかけとなって、ふたりの関係はこじれていくことに──。

優実を演じるのは、『菊とギロチン』『鈴木家の嘘』などの木竜麻生
直哉を演じるのは、『his』『佐々木、イン、マイマイン』などの藤原季節

登場人物たちと同世代の方、あるいはとうの昔にそんな年齢を通り過ぎた方でさえ、これは「あるある」だと感じずにはいられない物語であるはずだ。

社会的責任を担う自覚の希薄な年齢の若者が、理想と現実のギャップに翻弄されるのは世の常だ。優実と直哉とまったく同じ状況でなくとも、似たような状況下に立った経験のある方は少なくないだろう。筆者自身は身につまされるような思いで本作を観たし、このふたりのような関係にある人々を何人も知っている気がする。

「劇団た組」を主宰し、外部のプロデュース公演の場でも次々と刺激的な演劇作品を発表する加藤拓也の長編映画デビュー作は、そんな等身大の若者たちの姿が収められた映画なのである。

映画『わたし達はおとな』予告編<主題歌ver.>

加藤拓也が映画のフィールドで生み出す“真のリアリズム”

今この瞬間にもどこかで生まれているような物語に触れたとき、私たちはそれが明らかな創作物だと理解していながらも親近感を覚え、そこから感じられる「あるある度」が高ければ高いほど、「リアリティがある」として称賛する。

ここで重要なのは、ようやく大人になろうかという者たちにありがちな、現状に対する不満や将来に対する不安、未熟であるがゆえに浮上してくる人生のトピックよりも、そこで交わされているやりとりそのものだ。

当然ながらセリフを叫んだり、大仰な身振り手振りでキャラクターを表現しようとする者があっては、物語も登場人物たちもリアリティから遠ざかっていくことになる。私たちが目の前にしているリアル(日常)の範疇に収まった、等身大のものでなければならない。これがリアリズムの要だ。

自身のオリジナルから既存の戯曲まで幅広く演出を手がける加藤拓也の演劇作品には、圧倒的なアンリアル(非日常)と絶対的なリアル(日常)が同居している。演劇とは、作り手と観客の共犯関係によって、嘘を真実に変えてしまうものだ。都市空間に立つ劇場というハコの中でありながら、作り手の創意工夫と観客の想像力により、そこには海や山が出現し、登場人物たちは過去・現在・未来を自在に往還、俳優は年齢も性別も超越する。加藤の作品はこういった演劇の醍醐味を存分に取り入れながらも、リアリティあふれる会話劇を成立させる。

それは、カフェで、駅のホームで、公園で、病院の待合室で、親子や恋人、友人同士の間で交わされるもの。そんなドラマチックとは言い難い、ありふれた言葉たちが加藤の作品を満たしている。

しかし、本作『わたし達はおとな』は映画である。“見立て”などの演劇的な表現法を取り入れる必要はなく、優実は実際に大学に通い、直哉と同棲する部屋に帰り、実際に食べたり飲んだりもする。演劇作品に見受けられた圧倒的なアンリアルは消失し、登場人物たちが口にする言葉も、彼女たちを取り巻く環境も、絶対的なリアルだけで成立している。

“真のリアリズム”が、ここに誕生しているのである。

映画『わたし達はおとな』より

『愛がなんだ』や『花束みたいな恋をした』に連なる“等身大のラブストーリー”

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