『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』涙腺が崩壊する“ダンボールの中身”。予想を超えない誠実さを解説【ネタバレ】

2022.1.19


歴代スパイディでも最も可哀想な結末、だけど……

本作はスパイダーマンとはなんたるかということを、スパイダーマンの物語同士が救い合う構造そのもので示したのだといえる。ここに、アニメ『スパイダーマン:スパイダーバース』との共通項を見出せるのだが、しかし同時に本作ならではの必然性を見出すことができるだろう。すなわち、「繰り返しリブートされてきたスパイダーマン映画」という文脈を用いることの必然性を。 

だからこそ、本作のピーターは最後にあの選択をするのだ。それは、「責任」を受け入れるという通過儀礼であると共に、MCUという大きな文脈からの脱却にもなっている。あのラストシーンだけ観れば、おそらく歴代スパイダーマンの中でも最も可哀想な結末だろう。自身のわがままが招いた事態とはいえ、もはやメイおばさんどころか、MJも親友もいない。このままでは大学に入れないどころか、高校すら卒業できない。 

しかし、そんな極限の孤独状態になってしまっても、彼は自分でアパートの一室を借り、高卒認定を取ろうとする。もはや中盤で大活躍した、ハイテク機器満載のコンドミニアムとは対照的だ。がらんとしていて、機械といえばミシンだけ。そしてみんながクリスマスで浮かれるなか、メイおばさんの遺したあの言葉を胸に、そのミシンで縫ったお手製のスーツと共に、「人助け」に繰り出すのだ。

なんて悲しく、しかしなんて勇気が湧いてくるシーンだろうか。これぞスパイダーマンオリジンではないか。 

結論「ただただ感謝しかない」

『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』
歴代のヴィランたちに追い詰められ、ふたりのスパイダーマンと共闘し、ついに“自分の物語”が始まるMCU版ピーター

つまり、我々はこの3部作で、長いひとつのスパイダーマンオリジンを観ていたということになる。こうなってくると、翻ってMCUスパイダーマンに抱いていた数々の不満……大きな文脈に引っ張り回され、ハイテクスーツを使い、いつまでもNY市民に応援されるシーンがないというような不満も、「真にスパイダーマンになるまでの途中経過なのだから」という理由でむしろ許容されてしまうのだからなんともズル過ぎる映画だろう。 

しかしMCUとして、スパイダーマン映画として使えるものすべてを最適な方法で使い切り、とんでもなく誠実な「親愛なる隣人」の物語を語り切ってくれた本作には、ただただ感謝しかない。

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『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』
大ヒット公開中!
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※この記事は筆者のツイッター及びFilmarksに掲載されたレビューに一部加筆、修正を加えたものです。


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