わかっていたって言い出せない、リアルな表情
たとえば、夫の八郎が銀座で個展を行うことになったとき。地元の「窯業研究所」の所長から「いつもみたいにハチのうしろに控えてお客さんで迎えてくれるんやろ」「ほな美しい恰好してな」「あの作家の奥さん高そうな着物きてたな」「ほんであの奥さんな、英語にフランス語に中国語も話せる言うてたで」と言われても、喜美子は「任せてください、うち滋賀弁と大阪弁と東京の言葉も話せます」と切り替えしてその場を笑わせる。
このやり取りをたまたま聞いていた、幼い頃から喜美子を知る“腐れ縁”の友人、大野信作は「喜美子、思ってたんと今違うことしてるやろ」「今のなんや、奥さん奥さん、喜美子はどこにいったんや」「喜美子はここに来るたんび、お茶入れて、掃除して、弟子の面倒見て、そんなんばっかりやんけ、こんなんちゃうかったやろ。もうここは川原公房やない、八郎工房になってるわ」と思いを率直にぶつけるのだ。
こうしたことを言われても喜美子は、それに同調するどころか、「もうええねん、うちはかまへんねん」と戸惑い、当時話題であったキックボクサーの真似をして冗談めいたケンカに持ち込み、その場の空気を笑いに変える。
しかし、喜美子は所長に「奥さん奥さん」と言われたときも、信作に今の夫婦のあり方について指摘されたときも、一瞬は戸惑いの表情を見せる。喜美子だって、心の奥底ではわかっているのだ。でも、それを言い出せないかわりに見せた表情のリアルさに、自分のことを思い出す。
違和感を持つことにすら蓋をしなければならなかった過去
私たちも、マスコットガールとまではいかないまでも、自分の実力や今やっていることをすっ飛ばして見られて、過剰に女性である面だけを評価されたりすることもあったのではないか。また、男性たちと同じ仕事をしていても、同時にサポート役であることも求められ、そのいびつさに誰も気づかないどころか、それが当たり前と見られた経験をしたことがあるのではないだろうか。
そして、ほんの数年前まで、ちょっとおかしいな、変だなと思いつつも、ひきつった笑顔をみせながら、ここでそのおかしさについてことさらに言ったことがあったのではないか。空気を悪くさせてはいけないと、その違和感をぐっと飲み込んで、喜美子のように「もうええねん、うちはかまへんねん」と言ったことはないか。違和感を抱かせた相手に花を持たせ、その場の空気を優先させて、自分がピエロになってまで人をなごませることを、「気遣い」であると考えていなかったかと、思い返すのだ。
もちろん、これは当時の自分たちが怒れなかったことを責めているのではない。怒ることもできないどころか、違和感を持つことにすら蓋をしないといけなかった過去をなんだったのだろうと思い出しているのである。
『スカーレット』では、信作は喜美子に「そのうち絶対爆発するで」「無理してたらな、いつか歪むぞ」とも指摘する。1月下旬現在、その言葉が予言のようにも思える展開になってきているのだが、喜美子は、これを乗り越えれば、無理せずに自分の才能を開花させることができるのだろうか。
こんなふうに『スカーレット』は、現代を描いたものではないが、今を生きる私たちにも、非常にリアルに自分のことを思い起こさせるシーンがたくさんあるのだ。