自己犠牲を覆したかったのではないか
『赤毛のアン』でマシューが死んでしまうのはたいへん残念なことだ、とみなさん申されます。もちろんわたしも残念です。もしもう一度この作品を書きなおすことがあれば、マシューが後五、六年は生きるようにしましょう。でも『アン』を書いたときは、マシューは死ななくてはならないと作者のわたしは考えたのです。育ての親マシューの死によって、アンは自己犠牲を強いられることになる。そういう必然性がなくてはならない。
『険しい道 モンゴメリ自伝』L.M.モンゴメリ 著、山口昌子 訳/グーテンベルク21
と、作者のモンゴメリは考えていた。
この「マシューの死」からくるアンの自己犠牲を、製作総指揮のモイラ・ウォリー=ベケットは、どうにか覆したかったのではないか。
モンゴメリが現代にいてアンを書いたとしたらマシューを生かしていたと考えたのではないか。
原作では、ギルバートの父親の死が描かれるのはもっとあとのことだ(アン・シリーズ7『炉辺荘のアン』)。ドラマでは、ギルバートは父の死によって家を出ていく。「アヴォンリーに戻るなら自分の意志でだ。義務感からではなく」と語る。原作のアンが義務感からアヴォンリーにいることを決意したことを踏まえているのだ。
5話。「教育など受けさせなくてよいのです。女の子は良き妻になるように育てるべきだ」という牧師さんの説教に対して、「牧師さんの言うことは時代遅れだ」という結論をアンとマリラが出した。
7話。アンが背負うはずの「将来の夢を諦めて家に縛られる」という運命は、すでにマリラが背負っている。原作にはない兄の死というエピソード、そのためにマリラは将来の夢を諦め「家にいる」ことを決意する。ギルバートの父親ジョンとの恋を描き、アンに「家にいるべきだった。兄弟が死んだとき母が立ち直れなくて、わたしを必要とした」と語った。
これらの原作にはないエピソードは、マシューが生きて、アンに自己犠牲が強いられないために巧妙に組み立てられている。

【衝撃2】ここで終わりなの───!?
アンとマリラとマシューの物語は、本筋だけを観れば、再び希望の光が差し込んでくるよい終わり方になっていた。
だが、そこに横やりのように食い込ませたエピソードがえげつない。
そのせいで、「ここで終わりなの───!?」っていう衝撃のエンディングになっていた。物語が、全然終わってないのだ。なんなら、今までの話のほうが、1話完結の話になっていた。ここまでの「つづく」感はなかった。
農場を手放さなくてはいけなくなるかもしれず、カスバート家で少年ジェリーは働けなくなった。ジェリーは、最後の仕事としてアンと一緒に街に出る。アンは、ふくらんだ袖の服を返品し、紫水晶のブローチを質屋に売る。ジェリーは、お金を工面するために馬を売る。ひとり路地を歩くジェリーの前に、突如現れたふたり組。ふたりはジェリーに殴る蹴るの暴行を働き、金を奪い去っていく。『アンという名の少女』に、こんなにストレートな悪党が登場するのは初めてだ。

ジョセフィンおばさまの計らいで、少年ジェリーは再びカスバート家で働けるようになる。アンにプレゼントした本には「愛は施しではない」というメッセージと、紙幣が挟み込まれていた。
グリーン・ゲイブルズを下宿人に部屋貸しすることも決まり、どうにか借金返済の目途も立ってくる。マシューの容態も回復してくる。「わたしたち幸せよね」とアンが言い、マシューが「そうさのう」と答える。カスバート家の3人でまたがんばっていこうねって終わりになりそうなところに、やって来た下宿人は、あの悪党たちだったのだ。えええ───どうなるの───!!
ってところでエンドクレジットが流れ始める。
いわゆるクリフハンガーで、海外ドラマではよくある手法。シーズン最終話、一応決着したと思わせておきながら、ぐいっと「それからどーなるのッ!?」ってフックをかませて、次シーズンにつづくのだ。
Netflixで、つづきのシーズン2、シーズン3を観ることができる。できるけどNHK総合は、
<『アンという名の少女』をご覧いただき ありがとうございました 来週からは『グッド・ファイト2』を放送します>
ですって! テロップを出すだけ……なんてひどい仕打ちなんでしょう。宣伝をしちゃいけない公共放送なのに、これでは「つづきは配信で!」ってやり方なんだもの。ぜひとも、つづきをいつ放送するのかすぐにでも発表してもらわないと。どんな悲しい気持ちになってるか、お偉いさんは想像もつかないんでしょうね。
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