岩井秀人『いきなり本読み!』が炙り出した“演劇”の本質。生身の観客は必要なのか?

2020.8.20

私たちも目撃したものを通して作品を「創っている」

たとえば岩井秀人が「さとしさんはタンポポのような人だと思っています。なので、女性らしさではなく、普段のさとしさんのさとしさんらしさを大切に演じてほしい」ということを口にしたとき。松本穂香が「人間ならざるもの」を迫真の佇まいでダイナミックに響かせたとき。老人に扮したユースケ・サンタマリアの語りが、音楽が流れることで口調もろとも一変したとき。橋本さとしがセリフの読み間違いをすることで、極めて人間的な豊かさが派生したとき。

百戦錬磨の俳優らしく、懐の深さを見せた橋本。第3回『いきなり本読み!』1日目より

すべて、「立ち会えた」という歓びがみなぎった。これが演劇を体験するということなのではないか。大道具もなければ小道具もない。衣装も美術もない。しかし、それが芝居たり得ていたのは、3人の演技者の本気のみならず、私たち観客の本気の眼差しと想像、さらに言えば「組み立て力」があったからだ。

最低限の簡素なフォームの先に、それぞれオリジナルな人物が「立ち上がってくる」様を体感し、幻視する。それが私たちの「組み立て力」である。この力は、生のパフォーマンスが観る者の心に直接語りかけることによってしか、作動しない。

高校時代は演劇部に所属していたという松本は、演技の幅広さを存分に披露した。第3回『いきなり本読み!』1日目より

どんなに完成されているように見える演劇も、たとえば映画などの映像メディアに比べたら、そこにはないものを補完し、隙間を埋める作業が観客に必要とされる。演劇の観客には備わっているこの「組み立て力」が、裏側に見せかけて、実は堂々と演劇の表側を紡いだ岩井秀人の企みによって、鮮やかに作動した夜だった。

役者たちがその場で芝居を「創る」のと同じ純度で、私たちも目撃したものを通して作品を「創っている」のだ。

コロナに配慮した、通常と異なる演劇空間だったからこそ、芝居というものに向き合う意味があった。客席数は制限されていた。しかし、生身の人間が演じ、生身の人間がそうして受け取った表現を「組み立てる」演劇は、やはり、私たちが生きる上で必要な、脳の潤いであり、みずみずしい刺激なのだと痛感した。

こんなときだからこそ、私たちは自分の心で「組み立てる」ことを、欲している。

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