銅像に権威を求めていない日本人
ひょっとすると日本人の多くは、歴史的事象が特定の個人をかたどった銅像によって表現されることにあまり関心がないのかもしれない。逆にいえば、欧米では人々が銅像に対し歴史的な意義を認めるからこそ、破壊活動が頻繁に繰り返されるのだろう。それに対し、おそらく大方の日本人にとって、銅像とは権威の象徴でしかないのではないか。その傾向は、日露戦争後に伊藤博文像が引き倒された事件にすでに表れていたような気もする。ある時代からは、銅像は権威を笑い飛ばすための格好の標的となった。かつて正月の人気番組だった『新春かくし芸大会』(フジテレビ)では、クレージーキャッツのハナ肇が胸像に扮し、後輩タレント扮する学生たちから水を浴びせかけられたりパイを投げつけられたりして笑いを誘った。
さらにこのコントを現実化するかのように、京都大学の折田彦市の銅像が何度となく“受難”に遭った。折田は京大の前身である旧制第三高等学校(三高)の初代校長を務めた人物で、その没後、三高卒業生有志によって京大構内に銅像が設置された。のち金属供出を経て戦後再建されたこの像は、1980年代後半以降、学生たちによって落書きやいたずらが繰り返され、1997年にはついに台座と共に撤去されてしまう。しかし京大生は懲りずに、その後も毎年、折田先生像と称して、マンガ・アニメのキャラクターなどを模したハリボテを台座と共に制作しては大学構内に設置し、やがて入試シーズン恒例の名物となった。
日本人が銅像に権威を求めていないことは、こうした例を挙げるまでもなく、今なお一般に親しまれている銅像といえば、普段着で犬を散歩させる上野公園の西郷隆盛像であり、渋谷の待ち合わせ場所の定番となっているハチ公像であることが何より証明している。いずれも歴史上の人物(ハチ公に至っては人ですらない)というよりは、一種のキャラクターとして親しまれているといえる。こうした風土が、近年、各地でマンガ・アニメのキャラクターの銅像の設置につながっているのだろう。これと並行して戦国武将の銅像も盛んに建てられているが、こちらにしても観光客を誘致するためのキャラクターという扱いなのだろう。
そういえば、少し前に、東京・世田谷のサザエさん一家の銅像のうち波平の1本しかない髪の毛が繰り返し抜かれるという事件があった。これも確かに銅像破壊ではあるが、そこに政治的な意味などあるわけもない。日本人にとって銅像とは、台座にうやうやしく飾るものではなく、毛を抜けるぐらいの距離感がちょうどいいのかもしれない……と書けば、彫刻家に対しあまりに不遜だろうか。
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関連リンク
- 『銅像時代──もうひとつの日本彫刻史』木下直之/岩波書店
- 『銅像受難の近代』平瀬礼太/吉川弘文館
- 『彫刻と戦争の近代』平瀬礼太/吉川弘文館
- 『彫刻の問題』白川昌生、金井直、小田原のどか/トポフィル
- 『彫刻 SCULPTURE 1──空白の時代、戦時の彫刻/この国の彫刻のはじまりへ』小田原のどか編著/トポフィル
- 『アートライティング5 記録史料と芸術表現』林田新、中村裕太、小田原のどか/京都造形芸術大学 東北芸術工科大学 出版局 藝術学舎
- 『あいちトリエンナーレ2019』情の時代 Taming Y/Our Passion』あいちトリエンナーレ実行委員会編/あいちトリエンナーレ実行委員会
- 『サザエさん よりぬき波平さん』長谷川町子/朝日新聞出版
- 『美術フォーラム21 Vol.18』美術フォーラム21刊行会、醍醐書房
- 「銅像の撤去相次ぐ米国 なぜ設置、考える契機に」(『中日新聞Web』2020年7月17日配信)
- 「<懐かしの立命館>立命館大学の長い1日 その日「わだつみ像」は破壊された 」(『立命館史資料センター』2017年1月10日配信)
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