『あいちトリエンナーレ2019』で再現された台座
彫刻家・彫刻研究者の小田原のどかは、時代の変化と共に主人の変わったこの台座を通して、近代日本における彫刻のあり方を論じている(「空の台座」、小田原のどか編著『彫刻 SCULPTURE 1』/トポフィル)。この中で小田原は、《三宅坂の台座の上で起こった彫刻の交代劇は、「新しい日本」への転換を示したと本当に言えるのだろうか》と疑問を投げかけた上、次のように書く。
国民的記念碑としての銅像は、明治後半から雨後のたけのこのように乱立し、プロパガンダ(宣伝)に活用された。だが千体近くまで増えた銅像は、金属回収とGHQの方針による撤去により一斉に消える。その空白を利用して、平和の時代の平和の彫刻が誕生したが、それは《平和の群像》銘板に刻まれているように「平和を象徴する広告記念像」であり、宣伝広告のための彫刻だった。ここに「新しさ」はない。むしろ、分かつことのできない戦時との連続性があるとは言えないか。つまりは、軍国主義が台頭した戦中に民衆教化に用いられた銅像も、敗戦後に旧体制からの脱皮と「新しい日本」が重ねられた平和の裸婦像も、体制の宣伝装置としての彫刻をいたるところに建立させる現象と見ればまったく同質である。
『彫刻 SCULPTURE 1──空白の時代、戦時の彫刻/この国の彫刻のはじまりへ』小田原のどか編著/トポフィル
戦時と戦後の連続性という意味では、寺内正毅像を手がけた彫刻家の北村西望(せいぼう)はまさに象徴的な人物だ。北村は寺内像のほか、国会議事堂前に設置された山県有朋像など戦前には多くの軍人の銅像を制作した。それが戦後は一転して、原爆が投下された長崎市の平和祈念像に取り組むことになる。そのために彼が井の頭自然文化園脇に構えたアトリエは、のちに祈念像の原型とともに東京都に寄贈され、その敷地は彫刻園として1958年より公開された。前出の山県有朋像も、敗戦後は台座から降ろした状態で上野公園に移設されていたのを1962年に北村が引き取り、彫刻園に展示される。彼の中では、軍人像と平和祈念像を同じ場所に置くことに矛盾はなかったのだろう。しかし北村の没後、両像の共存は問題視され、山県像は1992年、今度は山県の故郷である山口県萩市に移された(木下直之『銅像時代――もうひとつの日本彫刻史』岩波書店)。
小田原は、平和祈念像をはじめ長崎市内に残る原爆関連の彫刻についても研究を行ってきた。昨年の「あいちトリエンナーレ」ではその成果の一部を展示すると共に、三宅坂の銅像の台座を再現した作品も出展している。『↓(1923-1951)』と題するその作品は、愛知環状鉄道の新豊田駅前の広場に設置され、人々が自由に登れるようになっていた。寺内正毅像が建っていた当時の状態で再現したというその台座には私も登ってみたのだが、かなり高く、かつて銅像がいかに威圧的に公共の場に建っていたかを実感させた。
戦後、この台座の高さは2メートル低くされ、前出の裸女像が置かれることになる。小田原は先の論文で、なぜ平和のシンボルが裸婦でなければならないのかとも疑問を呈し、《男性英雄を言祝ぐことも女性ヌードを言祝ぐことも、男性中心主義的思考であり、連続性があることを見逃すべきではない》という千葉慶の文章(「帝都の銅像──理念と現実」『美術フォーラム21』Vol.18)を引きながら、ここにもまた戦前と戦後の連続性を見て取っている。
公共空間の女性裸体像については、近年、フェミニズムの立場から再考を促す声も上がっている。ただ、そこで実力行使によって銅像が引き倒されるというようなことは起こっていない。今や公共空間に建つ銅像の主役は、裸婦像からマンガ・アニメのキャラクターに移行しつつある。おそらく今後、街の銅像は、敗戦直後と同様に静かに入れ替わっていくのだろう。それは本質に根ざした変化というよりは、時代の流れに沿ってひとまず表層だけは素早く変えてみせる日本人の節操のなさの反映なのではないか。
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