騒がしさの中に安らぎが、静けさの中にざわめきがある
分裂が必須であるふたつ目の理由は、これもまた最終エピソードがもたらす「私たちはそもそも分裂を繰り返す変容の存在である」という気づきにある。クランシーが最終的に辿り着く認識は、(これもトラッセルの言葉を借りれば)「自我の死」である。それは、自分という存在が一枚岩ではないということだ。私は私であって、しかし私ではない。一方で、私ではないものもまた、私である。私は何かと混ざり合い、分裂するように生まれ変わりつづける存在であり、確固たる境界に囲まれた自我というものはない。
本作は、死と繰り返し出会うことによる変容の物語だ。カタストロフを繰り返す星々への訪問によって遭遇する無数の死が、クランシーの生を変えていく。その相互関係や変容を、このシリーズはさまざまな「分裂」によって語る。ゲストたちは、ポッドキャストに出演した過去の自分と、フィクションのキャラクターを演じている現在の自分との間に分裂するし、クランシーはシミュレーターで無数の星を生み出し、なおかつ自分はアバターで姿を変えることで、その仮想現実の中へと分裂していく。
そんななか、死もまた、多元宇宙のひとつである。それは生者の世界から完全に分かたれたものではなく、私たちの一部を構成する何かだと本作は語るのだ。やはりここでも最終エピソードが例として最適だろう。このエピソードでは、ゲストは「再演」することはできない。ポッドキャストの収録後、トラッセルの母親はこの世を去ってしまったからだ。しかし、このエピソードは当時の声をそのままに、また新たな物語を語る何者かとして生まれ変わらせ、私たち生者に新鮮な気持ちを生まれさせる。
思えば、クランシーの行うスペースキャスト自体が、生死を完全に分かたないための触媒なのだ。宇宙に死者・過去の声を発信することで、それはいつまでも、変化の引き金になり得る。耳を傾けさえすれば、死者は生者を変容させ、死者もまた新たな生を身にまとい得る。トラッセルはインタビューで、「人は呼吸するごとに死を繰り返しているんだよ」と語る。
その言葉はまさに、騒がしい変転・流転に身を委ねるようなこのシリーズの視聴体験にぴったりだ。自分の中に蠢(うごめ)く死や生(しかもそれは他者の生・死によってもたらされている)に気づかせる本作は、静けさの中にざわめきを、騒がしさの中に安らぎを感じさせてくれる、アニメーションによる生まれ変わりの体験、その可能性なのである。
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