安田弘之によるマンガ『ちひろさん』が、監督に今泉力哉、主演に有村架純を迎え実写映画化された。
この物語の主人公は、ちひろさん。「ちひろ」は源氏名だ。彼女は本名ではなく、自分で選んだ名前で、自由な人生を歩んでいる。そして彼女を慕って集まる街の人々とも、既存の言葉では表せない繊細な関係性を育んでいる。
本作の監督を務めた今泉力哉は、世間一般の常識に縛られない、多様な視点を登場人物に与えることを強く意識したという。「『家族』『友達』『恋人』という名前の中にもさまざまな形やグラデーションがある」と語る今泉監督。映画『ちひろさん』で描いたのは、世間の常識や当たり前を疑う、ちひろさんの姿勢だった。
※この記事は『クイック・ジャパン』vol.165に掲載のインタビューを転載したものです。
今泉力哉
1981年生まれ、福島県出身。2010年『たまの映画』で長編映画監督デビュー。主な監督作に『愛がなんだ』(2019年)、『街の上で』(2021年)など。公開待機中の最新作に『アンダーカレント』(2023年秋公開予定)がある。
絶対的な“家族モノ”ではないことが伝わったらいいな
──今泉監督が、ちひろさんに惹かれた部分は?
今泉 型にハマっていない大人だからですかね。関係性の中で空気を読んだり常識にとらわれたりしないので、マンガを読んでいると視野が広がっていく心地がしました。だけど、ちひろさんも最初から強かったわけじゃない。きっと彼女自身にも傷ついた過去があり、だから自分の名前では生きられずにいたのかなって。
「ちひろ」として生きる中で出会った、オカジやマコトといった自分の幼少期と境遇が重なる幼い子どもたちに、なんらかの言葉や愛情を与えることができたのは、きっとちひろ自身もそうされたかった過去があるからなんだと思います。
──監督はこれまで「恋人」や「夫婦」という名前に形容されない、繊細な関係性を描かれてきました。本作では、主人公・ちひろは本名ではなく源氏名で生きる。つまり、既存の名前に回収されない「新しい名前」を名づけることで、新しい人生を獲得しました。原作9巻を1本の映画にするにあたり、その「名前」と「関係性」にフォーカスしたのではないかと感じたのですが、いかがでしょうか?
今泉 大きな軸として、ちひろが心を許す熱帯魚店の店長・内海とお弁当屋さんの夫人・多恵のふたりを「お父さん」「お母さん」と名づけるくだりを描くか、あるいはまったく触れないかのどちらの構成でいくべきか、最初に脚本の澤井香織さんやプロデューサーとずいぶん話し合いました。
というのも、心のつながりで集まった人たちなのに「やっぱり家族が一番」と解釈されないか不安があったからです。それでも、描くほうを選んだのは、彼女は親の代わりを欲したのではなく、自分の過去を救いたかったんだと思うんですよね。なので、ちひろの物語だけれど、オカジやマコトの家族を丁寧に描くことで彼女の過去が想像できたり、絶対的な“家族モノ”ではないことが伝わったらいいなと思っています(笑)。
──「家族」という言葉が揺らぐシーンとして、食卓が息苦しいと言うオカジに、ちひろが「みんなで食べたほうが美味しいって言うけどさ、ひとりで食べても美味しいもんは美味しいよ」と返すのが印象的です。
今泉 世間一般で言われていることを疑うことを、ちひろさんは教えてくれる。特に“家族”の中には理想が多いですからね。子どもは無意識に自分の役割を引き受けてしまっていることがある。親について愚痴をこぼしたオカジが「こんなによくしてもらってるのに。ほんとは感謝しなきゃいけないんですけど」と言って、自分の悩みを封印してしまうのが実は生きていて一番苦しいですよね。他人と比べてしまうと「私の悩みなんて」と思うことも、本人がつらいなら悩んでいい。そういう、とるに足らないとされる悩みを、大切に描くことは、今作に限らず常に意識しています。
──問題に向き合うきっかけをくれるのが、ちひろさん。
今泉 だから、ちひろさんのような変わった大人に出会うことは大切ですよね。僕にもいました。母方のおじさんで、結婚式や葬式にスーツだけど足元はスニーカーで来ちゃうような人。覚えているのは、私の小学生時代の、祖父の葬式のときのこと。
おじさんは、昼の間は棺桶を蹴るふりをして、「こんな早く死んじまってな」とか言って、子どもが飽きないようにふざけていたんですけど、僕が夜中にトイレに起きた際、ふと棺桶のほうを見たら、おじさんが棺桶に寄り添って自分の亡き父親のそばで一緒に寝ていたんです。すごくカッコいいと思いました。
おじさんは病気で、今はもう亡くなってしまっているんですけど、ずっと独り身だったことを「可哀想」と言う人もいて。でもそんなことないと思います。そういう型にハマった考えを「常識」と呼んだりする。なんだかなあと思います。
──たとえば「恋愛」にもさまざまな常識が存在していますよね。ちひろは恋愛に酔えず好んでひとりでいるのに、男女でいるだけで恋愛に結びつけられてしまうシーンがありました。
今泉 僕は不倫や浮気といったテーマをよく扱っているんですが、良くないことだというのは大前提として、ネガティブに捉えられることも別の角度から見たら、さまざまな感情があるってことを描きたいんですよね。あらゆる物ごとに正解/不正解があるわけではないし、名前のない感情もたくさんあるはず。当人同士で解決したのならそれでいいはずなのに、職を失うほど世間から断罪されるのは度が過ぎている気がします。ただ全員が全肯定派になると甘すぎるので、今回ならちひろの「元風俗嬢」の肩書きを揶揄する人もきちんと登場させたりして、あらゆる視点をできるだけ意識して描きました。
──個人の想いや世間の意見、いろいろな考えを想像するために意識されていることはありますか?
今泉 特にないですけど、自分がだらしない人間というか、ダメな人間なので、そういう人を肯定したい意識は強くあるのかもしれません。たとえば、なにかを続けることばかりが美談にされるけれど、やめるのにも勇気がいりますよね。天邪鬼というか、当たり前を疑いたい気質なのかもしれません。ただ、意見はひとつの提示でしかないから強要はしない。
ちひろが親友に「私は恋愛に酔えない」と伝えるけれど説得はしないように、わかってもらえたらうれしいけれど、その思考を相手がいっさい理解できなくても、どちらかが悪いってわけじゃない。「知っておいて」くらいの軽さで伝えて、相手がわからないことも許容する。求めすぎない。むしろ反対の考えを持った存在は貴重だと思います。大切にしたいです。
──ちひろさんのように、自分の呼吸しやすい場所で好きに生きていくためにはどうしたらいいと監督は思われますか?
今泉 そうですね……自分を持つことですかね。SNSなどで他人の意見を簡単に知れる時代に、人に惑わされず自分の意見を持つこと、また、周りと違う意見を発することは難しいです。でも、ほかの人との違いにこそ自分がある。発信するかどうかはどちらでも良くて、人とのズレをマイナスなことだと思わず、個性として大切にすることが重要な気がします。
違いという意味では「家族」「恋人」「友達」という名前の中にもいろんな形やグラデーションがある。この映画は、自分の名前では生きにくくて、お守りや鎧のようにして身につけていた新しい名前「ちひろ」に守られていたひとりの人間が、名前なんてどうでもいいや、という境地にたどり着くまでの物語だと思っていて。それってとっても素敵なことだなって思います。
NETFLIX 映画『ちひろさん』
監督:今泉力哉
原作:安田弘之『ちひろさん』(秋田書店「秋田レディースコミックスデラックス」刊)
出演:有村架純、豊嶋花、リリー・フランキー、風吹ジュンほか
NETFLIX全世界配信&全国劇場にて公開中
『クイック・ジャパン』vol.165
2023年2月28日(火)より順次発売の『クイック・ジャパン』vol.165は、表紙登場のえなこをはじめとした人気コスプレイヤーが多数在籍するPPエンタープライズ所属のコスプレイヤーへ取材を実施。 華やかなイメージの一方、あまり語られることのない本人たちのストーリーを徹底的に掘り下げた、60ページの読むコスプレイヤー特集となった。
また、今泉力哉監督により実写映画化されたマンガ『ちひろさん』(安田弘之作)の小特集も掲載。そのほか、2021年に『万事快調 オール・グリーンズ』で第28回松本清張賞を受賞した小説家・波木銅による新連載「ニュー・サバービア」がスタート。いつも以上に読む企画がそろった。
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『クイック・ジャパン』vol.165
★通常版★
発売日:2月28日(火)より順次
定価:1,430円(税込)
サイズ:A5/160ページ★限定版★
発売日:2月28日(火)より順次
定価:1,430円(税込)
サイズ:A5/160ページ
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