アイドルは「休み」もコンテンツ化した。“前向きな理由“が求められる休業と、ファンの受容をめぐって
日本では長らく、休まず働くことが美徳とされてきた。しかし、最近では休みをとることが受容されるようになってきた。それはエンタメやアイドルシーンにおいても同じである。
『乃木坂46のドラマトゥルギー 演じる身体/フィクション/静かな成熟』『「アイドル」の読み方 混乱する「語り」を問う』(ともに青弓社)などの著者である香月孝史が、“アイドルたちの休み”について語る。
※この記事は「休み!の冒険」と題して各分野の「休み」に注目した『クイック・ジャパン』vol.161(6月25日発売)に掲載されたコラムを転載したものです。
私たちはアイドルが「休まない」状態に慣れすぎている
アイドルグループのメンバーが休養を発表する、というトピックがネットニュースに載ることは現在、特段珍しいことではない。グループの数も非常に多いこの時代にあって、アイドルの休業をやたらと目にするという体感を持つ人も少なくないかもしれない。けれども、というより、だからこそあえて省みたいのはむしろ、実のところ私たちはアイドルが「休まない」状態に慣れすぎている、ということについてである。
そもそもアイドルとは、いくつものジャンルを越境することを常としている。
今日ならば乃木坂46をはじめとする坂道シリーズなど、メジャーシーンで活動するアイドルにその特徴は顕著だけれども、グループの名義で発表される楽曲のパフォーマンスやリリースに関わる稼働のほか、映画やドラマをはじめ各種放送メディア、モデル業などを含めた出版媒体、舞台演劇、広告、WEBメディアまで、コンテンツによって大きく性質の違う役割をアイドルたちは次々に引き受け、演者としてすぐさま適応してゆく。
そのつど異なるタイプのパフォーマンスや知識を要する状況に即応し、場を成り立たせては次の場へと臨む、いわばジェネラリスト的でもあるそのバランスやプロフェッショナル性は、おそらく世間的にはまだまだ低く見積もられている。
ただし、また今日的なアイドルシーンの特徴は、それら数多くの仕事の“隙間”にこそあると言えるかもしれない。ドキュメンタリー映像やさまざまなオフショット、ブログやSNS、モバイルメール等を駆使して、日々の断片や思索を絶えず発信することは、アイドルにとって今やほとんど標準装備である。
先に列記したような仕事の合間や、本来的には余暇であるはずの時間を用いながら、アイドルは日常的に自身のパーソナリティをアウトプットする。その結果、アイドルたちの“現在”を日々、容易にうかがい知れる環境を、私たちはごく当たり前に享受している。それゆえに、アイドルの発信がしばし途切れれば、それが一般的にはさして長い期間でなくても、そのメンバーの不在をことさらに感じることになる。
アイドルの休業を伝えるニュースが頻出するのだとすれば、それは絶えず“現在”を伝え続ける振る舞いが、いつしかアイドルシーンに所与として埋め込まれていることの裏返しでもある。だからこそ、アイドルは「休む」をわざわざ宣言する必要に駆られる。
休むことに理由はいらない
「休む」ことが宣言されるとき、そこには休業の理由が添えられる。これはもちろん、一方ではアイドルという職業人の生活や健康をケアする必要性を伝えるものでもある。
たとえば坂道シリーズでいうならば、かつての乃木坂46の生田絵梨花や櫻坂46(当時欅坂46)の原田葵、日向坂46(当時けやき坂46)の影山優佳など、休業発表に際して学業専念を理由として明言する事例からは、目下の職業キャリアと学業継続とを二律背反とせずに、個々の意思を尊重する志向がうかがえる。
また、でんぱ組.incの古川未鈴は2021年に産休に入り、可能な限りのスタイルで発信を継続、出産を経たのち現在、徐々に活動を再開している。
その歩みは、キャリアと私生活のバランスをいかに模索していくかの実践であり、同時にそれは、「アイドル」に押しけられてきた固定観念や呪縛を解いてゆく姿でもある。こうした休業のあり方は、少なからぬ問題提起力をもっている。
他方で、本来アイドル当人の心身の健康に深く根ざし、さまざまなデリケートさや困難を含みうるはずの「休業」について、常に正当らしき理由が求められ、周知されることが必須のようになるとしたら、それもまた息苦しさを生む。そしてまた、アイドルがパーソナリティの開示や物語性を大きな訴求力としている以上、休業からの復帰はたびたびグループの「物語」に組み込まれることになる。
すなわち、アイドルは「休み」さえもまた、常にコンテンツ化の契機に開かれている。「休み」をアイドル自身がコンテンツに組み込んでゆくかどうか自体には、おそらく絶対的な善も悪もない。けれども一方で「休み」にさしたる意味を託しても託さなくてもいいような、フラットに休みフラットに戻ってくることが自然に受け止められるような土壌が、もういくばくかあってもいいはずだ。
アイドルが不在の時間にも、意味や物語を託してゆくが……
それは、アイドルを生きる人たちのライフコースについて再考することでもある。「アイドルである」ことを離れる事象についていえば、アイドルが卒業を発表する際、「◯◯の道に進みたいから」といった“前向き”な理由が暗黙のうちに期待されたりする。それは、さまざまに理想を投影される存在であるアイドルの常だとは言えるのだろう。
だが、ある環境や職から離れるとき、人は必ずしも前向きなビジョンやその後の計画を携えているわけではない。その先の目標が明確に定まっていることもいないことも、目指した目標を撤回したり軌道修正したり元の道に戻ってきたりすることも、そもそも指針を見つけられず惑いながら日々を生きることも、無為の休みに身を委ねることも、いずれも人間の自然であることを、私たちは己の人生を生きながらよくわかっているはずだ。
そして、それら人生のどの過程を歩いていようと、その営為は等しく尊重されるべきものである。言わずもがな、アイドルも然り。
アイドルに理想や期待を投影するからこそ、受け手はアイドルが表舞台にいない時間に対しても、気づけば意味や物語を託してゆく。そんな営みはきっと、アイドルとファンとが相互を承認する過程において不可避ではある。けれども、どうしたってアイドル当人の人格を消費するエンターテインメントであるからこそ、己の受容のあり方を疑い、俯瞰する目もまた不可欠だ。
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