M-1が終わり、お笑い界の空気が変わる
駒場 自分らのことをおもろいと思ってましたし、それまで挫折も全然なかったんですよね。
内海 吉本で劇場の構成作家さんにダメ出しをされても、歯向かってましたから。トガってましたよ。結局、NSCに入らなかったから、他の芸人のように劇場にいる作家さんが「先生」という感覚もなかった。
駒場 そんなに早いペースではなかったんですけど、2010年の5月には劇場の2軍の位置には上がってました。「なんでもっと早く1軍いかれへんねん」と、相変わらずトガってましたね。
現在も続くインディーズのお笑いライブ「キタイ花ん」などで先輩にあたる大阪NSC25期生のザ・ツタンカーメンズらとしのぎを削り、2010年には笑い飯のラジオ番組『笑い飯のお楽しみアワー』(毎日放送)の5週勝ち抜きネタ企画で、第1回目に登場し、そのまま5週勝ち抜くという快挙を達成する。笑い飯がインタビューなどで「おもしろい」とミルクボーイの名前を出して褒め、関西でメディア関係者の間でささやかれ始めたのもこのころだ。当時のネタも、「M-1グランプリ2019」で審査員の松本人志に「行ったり来たり漫才」と称され、「リターン漫才」とも呼ばれる現在の型と同じものだったという。
内海 今と基本は何も変わってませんが、もっと粗かったし、「オカン」のくだりはなかったですね。「瀬戸内寂聴か、瀬戸内寂聴じゃないか」みたいなネタやってました(笑)。
駒場 2007年くらいにはこの型ができてました。部屋の掃除をしてて、部屋にあるいろいろなモノを「これはゴミかどうか」と僕が聞いて、それを内海が分別していくみたいなネタでしたね。
2010年末の「M-1グランプリ」では準々決勝進出止まりだったが、当時のルールで敗者復活戦にも出場することができ、駆け出しの芸人としては順風満帆と言っても過言ではない状況だった。しかし、その年の大会を最後にM-1は終了する。第2期スタートとなる2015年まで開催されない。彼らにとっても、「空白の5年」となる泥沼の期間が始まる。
駒場 ここまではがんばっていたんですよ。だって、M-1に出たくて芸人やってたわけですから。
内海 だから、M-1が終わったのはショックでした。最初はあまり実感がなかったんですが、徐々にきいてきましたね。それでも、M-1で敗者復活までいった余力で、翌2011年には「ABCお笑い新人グランプリ」決勝に出られることになったんです。そしたら、テレビの生放送もある決勝当日に、駒場が髪の毛に金色のメッシュを入れてきたんですよ。
駒場 長渕剛さんが好きだったんで、その当時長渕さんもされてた同じ金髪にしました。七五三みたいな、晴れ舞台というつもりで……。
内海 ビックリしたわ。でも僕も、晴れ舞台という気分は一緒だったんで、お互いに相談せずにそれぞれ普通のスーツを買ってきて、当日おろしたんです。そしたらむちゃくちゃ動きにくくて、漫才の感覚もわからなくなってしまった。結果も全然ダメでしたね。
駒場 そのころ、お互いをちゃんと見てなかったんですよ。ネタもそれまでのをコネくり回しただけで、本番も全然うまくいかなかった。初めての晴れ舞台に浮かれてただけでした。
内海 そのとき優勝したのが、先輩のウーマンラッシュアワーさんでした。僕ら本番はダメでしたけど、当時はあんまり気にしてなかった。いずれ順番が回ってくるだろうと思ってました。
駒場 僕らもいずれ「ABCお笑い新人グランプリ」獲れるやろうと思ってたし、M-1が終わって、年末の漫才の賞レースとして「THE MANZAI」は始まりましたが、M-1とはまた違うものだった。
内海 当時のお笑い界が、漫才だけやなく、資格を取ったり、どこかの企業の社長さんと付き合ったり、何かいろんなことをせなアカンという風潮になっていったんですよね。そこから、徐々に歯車が狂い出しました。
(次頁「ミルクボーイはこのままなくなるんやろなと思ってた」につづく)