「自己嫌悪」は誰が誰に嫌悪しているのか(岩渕想太)

2022.8.28


「自己嫌悪」の正体

しかし、こう毎日同じことを繰り返していると、ひとつの疑問が浮かび上がってくる。至ってシンプルな疑問、「なぜ私は決めた時間に起きられないのか?」。毎日の朝を、自分を責めることから始めるのは精神衛生上いいとは思えない。明日は必ず予定どおりに起きるぞ、という固い決意。同じことを繰り返さないという矜持は、なぜこんなにも簡単に打ち破られるのだろう。

昔読んだ本『ものぐさ精神分析』の中で筆者の岸田秀が言っていた。自己嫌悪というのは、「自分を嫌悪する自分」という架空の自己を作り出す行為だと。つまり、自分がやったことを耐え難く感じる自分、早起きの話でいうと、スケジュールを遵守できて、ゆとりを持って動くことのできる自分、という架空の自分を生み出すことで、自分のやったことをチャラにする行為、それが自己嫌悪だという。なんて意地悪な捉え方なんだとため息が出そうになるが、確かに当てはまるところは多そうだ。

毎朝毎朝、記憶をなくしたSF映画の主人公のように、私は設定を読み込む。設定とは、「私は本当はもっと早く起きてゆとりを持った生活を送れるはずが、一時の不手際から寝坊をしてしまい今に至る」というものだ。本当の自分はこうじゃないと唱えつづけながら朝の準備をこなし、そうした自己叱責を繰り返すうちに、本当は自分は早起きができる奴だ、今日だけミスっただけだと錯覚していく。その架空の視点から、明日は必ずしないぞと決意する。

気づけば、寝坊した罪の意識なんてものは消えている。現実の自分というのは、もっと狡猾だ。起きて予定に間に合うまでに最低かかる時間を知っていて、それまでは寝られるだけ寝てやろうという魂胆だ。そんな奴が朝に限って仮面を被って、自分を否定している。「起きられないなんてけしからん! もっとゆとりを持った朝をだな……」とんだ茶番をやっている。ひとりで何役も演じる落語のようだ。

こいつは自分じゃない

こうして考えると、「こいつは自分じゃない」と弾き出された側の自分がかわいそうになってきた。朝起きられなかったのも、貯金もないのに服を買ってしまったことも、行かないと決めていたのに飲みに行ってしまった夜も、すべて紛れもなく本当の自分だ。そんな自分が、エイリアンのように外からやってきた「堅実で倹約家で努力志向の自分」に成り代わられてしまっている。

テーブルを囲んで、皆の前で「食べ過ぎた」と言って自分を責める人は「一時の楽しみに身を預けずに、節制できている自分(今回はたまたまミスっただけ)」に体を乗っ取られている。「怒りっぽいのが悩みなんだよね」と相談してくる友人には、「普段は感情の抑制ができている」という設定が読み込まれているはずだ。

自分で言う「惰眠」や「浪費」もおかしな話だ。もともとただの「睡眠」であり「消費」であったものを、無駄で必要のないものだと判断しているのは紛れもなく自分なのだから。自己嫌悪とはオブラートでもあるかもしれない。本当はとても欲深く、ゴツゴツしていて、グロテスクな「実際の自分」を包み隠すための。

私が同じ朝を繰り返すように、自己嫌悪は反復される。口癖のようになり、その限り、溝は一生埋まらない。「架空の自分」と「実際の自分」の間に、いつまで経っても1時間という隔たりがある。映画『カリートの道』で、アル・パチーノ演じるマフィア・カリートが夢見た楽園(パラダイス)のようなものが、私にとっての穏やかな朝だ。永遠に辿り着けない。


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